つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡の空を見上げて思い出した、究極の選択。

2011年09月30日 22時57分50秒 | 日記
「今日の一枚」は、散歩中に撮影した電線。
画像上の横に伸びた左と右の結線部分には、
「赤」「青」「白」の目印が施されている。
僕は、この光景を見て“昭和サスペンスの定番シーン”を思い出した。

スパイ物やSF物などのワンシーン…
例えば、主人公が敵の基地に乗り込んだ主人公が囚われの身となり、
縛り付けられて自由も奪われたうえ、傍に時限爆弾を仕掛けられたとする。
絶体絶命の大ピンチだ。
厳しい訓練に耐え身につけた技によって手首や肩関節を外し、
緊縛からは脱出したものの、爆弾を無力化しなければ、死。
主人公は隠し持っていたナイフを使い爆弾を分解し始め、
何とか起爆装置まで辿り着くと、目の前にはコードが3本。
それぞれに「赤」「青」「白」のカバーがかかっている。
そして主人公は額の汗を拭って呟く。

『本物は…一つだ。』

助かる確率は3分の1。
正しい1本を切断すれば、爆弾の時間は止まる。
しかし、もしも間違ったとすれば、即爆発!
自分の命だけでなく、地球の平和まで失われてしまうのである。
残された時間は、あと30秒。
果たして、震える手で選んだのは、どの色なのかっっ…!?

…という感じの展開を、漫画やアニメで何度か目にした気がする。
そして、考えた。
もしも、同じシチュエーションになったとしたら、
自分は何色を選ぶだろうか?
ブログを読んでくれている貴方はいかがだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津幡町で交錯する、秋の実像と夏の残像。

2011年09月29日 23時54分34秒 | 草花
「今日の一枚」は、民家のフェンスに絡みつく朝顔の子房。
充分に膨らみ、茶色く変色している。
外皮の中では、黒く立派な種が形成されているのだろう。

朝顔は自家受粉する植物。
雄しべについた花粉が雌しべについて実を結ぶのだ。
大概は放ったらかしでも、勝手に種子が出来、手間いらず。
だから収穫しやすい。
子房を千切って、紙の封筒に入れ常温で乾燥。
1ヶ月程が経ち、良く乾いたら開いて種を取り出す。
保管場所は、やはり紙製の封筒。
ビニール袋では通気が悪く、カビが付いたり、腐ったりする危険があった。
去年と今年、7月の投稿で小学生時代に朝顔を咲かせた話を書いたが、
30数年前の今時分、種を集めたのも思い出の1つである。

…という訳で、実りの季節を迎えた津幡町。
一方、画像の奥に写っているのは、ピントがボケた青い花。
これは夏の残像にも思える。
本格的な秋になってはいるが、まだ微かに夏が残っていた。

9月一杯は、2つの季節が交錯する季節。
気温は変わりやすく、夏のような陽気が続いたかと思うと、
急に冷え込んだりする。
空も晴天が長続きせず、数日毎に変化するのが常だ。
その理由は偏西風。
夏の間は日本の南から太平洋高気圧が張り出すため、
偏西風は北上し、大陸からやってくる低気圧も日本の北を通る。
秋になると、太平洋高気圧の勢力が弱まり、偏西風は南下。
日本上空の気圧の流れが早くなり、高気圧や低気圧が次々と通過するため、
晴れたり曇ったり、雨が降ったり。
そんな様子を昔の人はこう例えた。

「女心と秋の空」。

「いやいや、まてよ」…と思う。
男心だって移り気である。
種のように固く心を決めるまで・・・「決心」するまで、
迷い、悩み、揺れ動き、様々な思いが錯綜してしまうのは、
男も女も同じなのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウォーク・オン・ザ・津幡リバー・サイド(後編)。

2011年09月28日 23時27分34秒 | 日記
きのうの続きである。
台風シーズンの秋を迎えてか、
水量が少なく調整された津幡川の川べりを歩いてみた。

「おやど橋」の付近から出発し、5分あまりで「住ノ江橋」へ。
普段は接する事のない景色を楽しみつつ、更に川下に向って歩みを進め、
「冒頭の一枚」…川底に沈んだ車輪を発見。
写真ではやや分かりにくいかもしれないが、手前と奥に前後輪が横たわり、
両者をつなぐシャフトもあった。
タイヤの形状から見て、トラクターなどの農業用車なのではなかろうか?
それが何故ここに?
いらなくなったから捨てた。
路上を走行中に誤って滑り落ちた。
水害によって他から流されてきた。
幾つかの推測は思い浮かぶが、どれも確信は持てない。
とにかく、不可思議なのである。

次に行程は「中須加橋」へと到達。
その下を通り過ぎた時、パタパタという微かな羽音に振り返れば、
斜めになった桟橋の影に、十数羽の鳩の群れ。
首を傾げて小さな鳴き声を立てながら、翼を休めていた。

 

しばしの休息といった面持ちである。
これから、落ち穂拾いにでも出かけるつもりなのだろうか。
しばしの邂逅を楽しんだ後、
行く手には点々と広がる黒い何かが視界に入ってきた。

 

何だろう?
近づいてみると、それは貝だった。

 

引いてゆく水のスピードに対応しきれず、
コンクリートの一角に取り残されたと思われる。
このまま干上がってしまったとしたら、彼らの運命は過酷だ。
早く水かさが増すか、川の中へ避難して欲しいものである。

ところで、アップで取り上げたのはタニシのような巻貝だが、
辺りに目を向ければ二枚貝の姿も。
どうやら「蜆」らしい。
ここまで汽水域の河北潟が広がり水郷だった往時は、
こうした恵みを糧にしていた人々が大勢いたはず。
今よりも更に豊かだった自然が偲ばれる。

さぁゴールが近づいてきた。
水際から先を眺め、愛犬「りくすけ」と先を急ぐ。
所々、異臭とまでは呼べないが、心地よくない匂いが鼻を突く。
津幡川は、やはり清流ではないのだ。
だが、津幡町に暮らす僕にとっては“Mother River”…
“母なる川”であるのは、変わりない。

視線を上げれば、やはり水門が開いていた。

 
 

その向こうは、現在の河北潟へと繋がっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウォーク・オン・ザ・津幡リバー・サイド(前編)。

2011年09月27日 22時11分56秒 | 日記
9月7日の投稿でも同様だったが、ここ数日、津幡川の水位が低い。
やはり台風シーズンの秋ならではの事だとは思うが、
増水を警戒してか、川尻水門の堰を開いているせいなのだろう。
流れは速く、讃える水の量も少ないのだ。
お陰で先週末、文字通り「川沿い」を歩くことができた。
普段は、お目にかかれない視点から川と街を望んだ様子を、
前・後編に渡って掲載してみよう。

…という訳で「冒頭の一枚」は、低いアングルから捉えた「おやど橋」である。
奥左手には「タブの木」。
橋の対岸には「弘願寺」。
秋の日差しを浴びてキラキラと輝く川には、
水音を創る四角い影が横断している。
それは…

 

川底のコンクリートの床固工。
主に川が蛇行して流れ、
洪水や土砂が氾濫する危険のあるポイントに設けられる
背の低い一連の「砂防えん堤」のような施設だ。
床固工は流れの勾配を造り、
川底が下がるのを防いで、勾配が穏やかになるため、
水の勢いを抑え、円滑に促す。
サラサラと耳を打つ水音も演出してくれる。
治水の証しだ。

歩を進め「住ノ江橋」に近づくと…昔の「橋桁」と思われる遺構が出現。

 

果たして、何時のものなのだろうか?
少なくとも僕の記憶の範囲の外だ。
通常なら水に隠れた人工物は物言わず、ただ横たわっている。
おそらく久方ぶりに陽の光を浴びて。
しばし足を止め、先人の苦労を偲び想いを馳せた。

続いて振り返り「おやど橋」方向を向いてシャッターを切る。

 

この角度から眺める川も趣深い。
…と思っていたら、護岸の亀裂を発見。
星霜の長さを実感した。

 

そろそろ修繕が必要かもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津幡町で見つけたコントラスト。

2011年09月26日 23時31分15秒 | 日記
前回は、自然と人がもたらす「光と影」について投稿したが、
今回は、散歩中に見つけた別のコントラストについて書いてみたい。
まずは「冒頭の一枚」。
北陸ならではの赤と白の対比である。

これは「スノーポール」と呼ばれる道路標識の一種だ。
ある程度の積雪に見舞われても、
車道と歩道の境、路肩が分かるように設置されている。
高さはおよそ2メートル。
これを超える雪にお目にかかった記憶はない。
雪のない季節にとって必要性は低いが、冬季は大活躍。
特に雪の降る夜間、本当に助かる。
また、除雪の際の基準としても有効だ。

続いて、秋ならではのコントラスト。
美しく高みのある青空と、白いガードレールである。

 

ガードレールの下、コンクリートのグレーもなかなか。
更には空に浮かぶ雲まで、青空との対比を成して美しく感じた。
夏の強い陽射しと眩しさの下や、弱い冬の日差しと鉛色の背景では、
なかなかこうはいかない。
今だから映えるバランスである。

もう一つ、やはり秋らしい対照だ。
クッキリと別れたグリーンとブルー。
緑は、夏を経て繁茂の時期を迎えた「葛」。
澄んだ青とのコントラストが、これまた美しい。

 

何気なく歩く道も視点を変えて眺めれば、
色んな発見や見方があるものだと、改めて実感。
「どう見えるか」ではなく「どう見るか」。

能動的に捉えれば、錯覚すら意味を持つのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする