つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡町の名士と銘菓。

2012年02月27日 07時06分29秒 | 日記
2月15日の投稿で、
津幡駅にて販売されている鉄道銘菓「きびあんころ」について書いた。
先日、散歩の折に、製造元の「(有)庭田商店」を発見。
「冒頭の一枚」、右手に写るライトバンが停まった建物がそれ。
津幡と金沢北部をつなぐ旧道から、中条公民館の横道へ入った辺り。
中条小学校グラウンドの裏手だ。
『ここで一世紀もの間、伝統の味を護り続けているのか』
…と、感慨を覚えて見上げた看板も、年季が入っている。

 

更に散策を続けるうち、周囲に「庭田姓」が多い事に気付く。
しかも、なかなか立派な門構えの家屋が多い。
どうやら、津幡町・中条地区における旧家・名家なのではないだろうか?!
そう思い当たった僕は、調べ物をするうち
「広報つばた」の最新号(平成24年2月号)に興味深い記事を見つけた。
原文のママ記載する。

『「庭田次平」は安政5年(1858)に南中条に生まれ、
 幼名を「駒太郎」といいました。
 明治17年(1884)に太田村戸長(中条・井上12地ち区の長)、
 19年に県議会議員、
 22年(1889)には初代中条村長になりました。
 明治1年(1898)、北陸線が金沢から富山まで延長されようとしたとき、
 停車場敷地を無償で提供して、南中条に津幡駅を設置しました。
 また、旧河内村で銅山を開発したほか、殖産興業にも力を注ぎ、
 山野を開拓して桑の苗を植え、羽二重の製造と輸出に努めるなど、
 多方面において実績を残しました。
 明治35年(1902)に衆議院議員となりましたが、同年に議会が解散、
 採取場の準備中に病に倒れ、
 翌36年(1903)にその生涯を閉じました。
 明治36年(1903)12月 津幡駅前に石碑が建てられました。
                       <津幡町のみてあるき 参考>』

そうだったのか。
そんな先達がいたのなら、同じ姓の一族が栄えたのも頷ける。
庭田商店も、案外「次平氏」が創業したのかもしれない。
そして、津幡駅前の石碑…以前から目に止まってはいたが、
そんな謂れがあったとは初耳である。
早速足を向け、改めて玩味してみた。

 

 

109年の月日を経たモニュメントは、夕闇の中で雄々しく聳え立つ。
明治の気骨を示すように。
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津幡町の買い食い回顧録。

2012年02月26日 19時01分01秒 | 日記
きのうの夕方、曇天を突いて久方ぶりの本格的な散歩に出掛ける。
行程は時間にしておよそ2時間、距離にしておよそ6キロ。
ずい分とご無沙汰していたため、嬉しさのあまり、勢いロングウォークとなった。
目に付いた諸々をカメラに収めながら歩くうち、気がつくとすっかり日が落ち、
体は夜気に包まれてしまう。
弥生が近いというのに、まだ、冬が居残っていることを実感した。

・・・と、その時、薄闇の中に浮かぶ灯りを発見。
それが「冒頭の一枚」、津幡町・横浜の粉物屋さん「いのうえ」である。
店内に掲げられた暖簾にあるとおり、たい焼き、たこ焼きをはじめ、
焼きソバ、お好み焼きなど、定番のB級グルメを販売している。
ちょうど小腹が空いていた僕は、迷わずガラスの引き戸を開け、
たこ焼きを注文。
12個入りで、お値段350円也。 今時、リーズナブルである。 
津幡中学校に近い立地を考えると、中学生が訪れるケースも多いだろう。
僕自身もその1人だった。
限られた懐具合に配慮し、低価格を守って頑張っているのかなと想像する。

支払いを終え、礼を言って外に出ると、早速、歩きながらパクついた。
甘くスパイシーなソースの匂いと青海苔の香りに食欲をそそられ、
噛み締めると、柔らかな生地の食感に続けて蛸の旨味が顔を出す。
喉元を過ぎる温かさが、臓腑に染みて心地いい。
目立った特長はないものの、素朴な味わいは昔のまま。
唯一の違いは、パッケージだ。
今回の容器は、発泡スチロールのトレイだったが、
かつては、緑色の薄紙に包まれて、舟形の経木に納められていたっけ…。

 

たこ焼きに元気付けられ刻々と暗くなる街中を進むうち、
やがて、中央銀座商店街が近づいてくると、行く手に赤提灯が出現。

 

焼き鳥「しま」である。
腹は満たされていたのだが、漂う煙の誘惑に喉が鳴った。
焼き場の窓を開けて値段を聞くと、1本80円との事。 こちらも安い。
ねぎまとシロを頼んで、またまた歩きながら頂いてしまった。
薄口の甘いタレがタップリ絡んだ肉は、
子供の頃に食べた当時と変わらぬ懐かしい塩梅である。

 

…嗚呼、買い食いって楽しい。
夕暮れ散歩の際は、クセになってしまいそうだ。
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烏のいる風景、平成と昭和の津幡町。

2012年02月25日 13時45分35秒 | 自然
「今日の一枚」は、津幡町役場の看板に留まった一羽の烏。
おそらくハシブトガラスだろう。

烏はとても賢い動物だと言われる。
海外には、木の幹の穴の虫を取り出すために棒を使う種類がいたり、
国内でも道具を使う姿が目撃されてきた。
ヒトの顔を見分けて記憶できるのだと聞いた事もある。
知能が高いからこそ、こちらに悪意があるかどうかを見抜けるのだろうか?
僕が近づいてシャッターを切っても飛び立つ気配を見せず、
実に堂々と佇んでいた。

平成になって、烏のイメージダウンは甚だしい。
その代表的な悪事とされるのは、ゴミの散乱である。
回収日に出された家庭ゴミの生物などを漁り、食べ散らかしてしまう。
津幡町内でも、対策として当初は家毎に防鳥ネットを被せていたものの、
今では各区毎に集積場を設け、金属製の檻の中へゴミ出しするのが一般的。
お金をかけて隔絶しなければならない点を見ても、烏は嫌われ者なのである。

…しかし振り返ってみれば、かつては違った。
短時間で入浴する事を「烏の行水」。
仲の良い三人組は「三羽烏」。
大和撫子の美しい黒髪を、深みのある烏の羽毛に例えて「カラスの濡羽色」など、
善きにつけ悪しきにつけ烏にまつわる慣用句は多い。

更に、津幡小学校に通っていた当時の僕は、よくこう言ったものだ。
『カラスが鳴くから、帰ーろっ!』
烏はねぐらに帰る際に鳴き声を上げる習性があるそうだ。
カァ~♪カァ~♪とやや間延びしたサウンドは、
帰郷・帰宅・夕暮れを連想させる。
80数年前から歌い継がれる童謡「夕焼け小焼け」などは、その典型だ。

『夕焼け 小焼けで 日が暮れて
 山のお寺の 鐘がなる
 おててつないで みなかえろう
 からすと いっしょに かえりましょ』

また、やはり童謡の名曲「七つの子」ではモチーフの主役になっている。

『からす なぜ啼くの
 からすは山に
 可愛い七つの子があるからよ
 
 可愛い 可愛いとからすは啼くの
 可愛い 可愛いと啼くんだよ

 山の古巣へ
 行つて見て御覧
 丸い眼をしたいい子だよ 』

美しい歌詞の中に描かれた烏は、悪役ではない。

更に「8時だヨ!全員集合!」での「志村けん」のギャグ替え歌…
『からす なぜ鳴くの からすの勝手でしょ~♪』の流行。
漫画などで、烏の鳴き声を「アホーアホー」と擬音化し、
何かを嘲笑した表現として使われるのも珍しくなかった。

昭和の烏のイメージは「親愛」だったかもしれない。
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津幡町から来たTAXI。

2012年02月24日 23時03分04秒 | 日記
「今日の一枚」は「津幡交通」のタクシーである。
買い物のため入ろうとした金沢市・彦三のコンビニ前で、偶然出合わせた。

普段は、まずお目にかかる機会などない。
何しろ津幡町中心部から撮影場所まで、距離にして片道20キロ弱。
料金なら4000円を下らないだろう。
JRや路線バスと比較すればかなりの高額負担。
余程急いでいるか、懐に余裕があるか、
何らかの理由がなければ、利用しないであろう贅沢な移動手段だ。

ところで、僕は子供の頃から、タクシー独特の排気ガスの臭いが好きだった。
その素になっているのはLPガス。
ガソリンに比べて窒素酸化物の排出量が少なく、
化石燃料としては地球に優しい部類と言えるかもしれない。
更に、値段はガソリンの半額程度。
但し、燃費ではガソリンに軍配が上がる。
そして、LPガススタンド自体の数が少ない。
これら諸々の状況を勘案すると、近距離移動の旅客を生業とする
地域密着のタクシー業にこそ相応しい選択だ。

だからこそ金沢で津幡のTAXIに出合う機会は少ない。
なかなか、貴重な遭遇なのである。
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津幡町の名もなき社。

2012年02月23日 07時42分42秒 | 日記
「今日の一枚」は、小さな祠。
父方の親戚筋、母方の生家へ赴く際には必ず前を通る。
僕が子供の頃から同じ場所に鎮座しているが、
きっともっとずっと以前から風雪に耐えているのだろう。

「祠」を辞書で引くと…【神や祖先を祭る所】と書かれている。
何を祀り、何故ここが選ばれたのかは分からない。
しかし、何らかの理由と意図はあったはずだ。
想像するに「道中安全祈願」かもしれない。

祠に向かって左へ進めば山間部の集落、右に進めば津幡市街。
決して通行量は多くないが、昔から人々が行き交ってきた街道である。
かつて…昭和30年代以前、移動手段のメインは徒歩か牛馬。
その行程に費やす時間は、今とは比較にならないくらい長く、
労力も大きかった。
当時の道中、この祠の前で小休止を取り、手を合せ、
無事を祈ったのではないだろうか。

一体どれほどの所懐が重ねられたのかと想像すると、
小さな名もなき社は、より尊く思えるのである。
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