つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

小さな虫の大きな恩恵。~津幡町の路肩にて。

2013年05月30日 07時55分40秒 | 自然
「今日の一枚」は、花の蜜に夢中の「花アブ」。
かなり接写したにも拘わらず、逃げる気配はまったくなかった。
彼等は多分に臆病だが、時として大胆になる。
特に、食事中はその傾向が顕著だ。
人など意に介さないとばかりに動じず、没頭している事が多い。

「花アブ」は、名前の通り(見ての通り)花の蜜や花粉が大好物。
市街地の花壇や街路樹などで、よく見かける。
訪れる花を選ばないため、植物たちにとっては花粉を媒介してくれるお得いさん。
持ちつ持たれつの関係なのだ。
しかし「花アブ」には、ミツバチの様に巣を作り蜜を集める習性はなく、
人間との関係は希薄である。

そもそもミツバチは、特別な存在。
一匹の女王蜂と、沢山の雌の働き蜂、少数の雄蜂で独自の集団生活を営む。
子孫繁栄、社会維持のために「食料」を備蓄する必要があった。
それが「蜂蜜」である。
滋養強壮と保存力に優れた、秀逸な食品だ。
ミツバチは体の中に酵素を用い、花の蜜を「蜂蜜」に変える。
我々人間は、太古から、彼等の食料を頂いてきた訳だ。
大いなる恩恵に対しては、精々外敵を巣から遠ざけたり、花のある土地へ運搬したりと、
微々たる御返ししかできない。
アンバランスなギブ&テイクである。

…さて、ミツバチではない「花アブ」君が停まっている花は「小手毬」。
名前の通り(見た目の通り)小さな花が丸く集まり、手毬のように咲いている。
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或る初夏の夕景。~津幡町の商店街とグラウンドにて。

2013年05月29日 07時38分57秒 | 日記
5月14日・沖縄。15日・奄美。 
27日・九州、四国、中国地方。
28日には、近畿・東海地方。 
既に日本列島の半分が梅雨入り宣言。
まだ5月中である事を考えると、今年は随分と足が速い。
ここ北陸の入梅は何時になるのだろうか?
やがて豊かな実りをもたらす“恵みの雨”だが、散歩にとっては手強い敵。
レイニーシーズンになれば、つい足が遠のいてしまう。

一方、先週までは素晴らしい晴天が続いていた。
初夏らしく爽やかな陽気に誘われ、つい足を延ばしてみたくなる。
ベストシーズンとは、あの様なタイミングを言うのだろう。
…という事で「今日の一枚」は、先週末に撮影。
シャッターを切ったのは、陽が落ちる1時間前の午後6時だ。

過去にも何度が書いてきたが、個人的には現在の愛称である「パピィ1」よりも
「津幡中央銀座商店街」の方がしっくり来る。
昭和戦後、賑わいの象徴だった東京の「銀座」にあやかった名称は、
都市部に限らず日本の各地の商店街に多い。
そして、その多くが斜陽となって久しい…。
往時を知る身としては、寂しいことである。

僕は、更に歩を進めた。
次に向かったのは津幡小学校のグラウンド。

   

旧校舎がなくなり、広くなった。
しかし、僕にとっては馴染みの薄い景観。
やはり、学び舎が建っていた頃の方がしっくり来る。
迫る夕暮れのせいか?
記憶の中のホームタウンに望郷の念が募る。
…と、踵を返すと、鉄棒で遊ぶ子供たちの姿が。

  

これは、昔も今も変わらない。
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古人が生きた証。~津幡町・中橋にて。

2013年05月28日 22時30分20秒 | 日記
「今日の一枚」は、津幡川沿いにある「中橋墓地霊園」にて撮影。
小さな墓石には「安永二年 巳 五月八日」と刻まれていた。
「安永年間」は、西暦で言えば、1772年から1780年までを指す。
つまり、この墓標は240年前から、町を見守ってきた事になる。

1603年の幕府成立から、1867年の大政奉還までの264年と仮定し、
前・中・後期で3分割するならば、1つの期間は88年毎。
故に「安永年間」は、江戸時代の中期から後期への過渡期にあたるタイミングである。

当時の江戸幕府のトップは、第10代将軍「徳川家治」。
日本の人口と米の生産高倍増により、経済の規模も拡大し、
経済が戦国型の軍事優先から、民間主導に移行した「元禄」。
8代将軍「吉宗」が、質素倹約、綱紀粛正などを柱とした緊縮財政と、
新田開発に代表される新規開拓を推し進めた「享保」。
…2つの大きな流れを経た「安永」の大きな出来事としては、
「解体新書」の刊行が挙げられるだろう。

ドイツ人医師が著した医学書のオランダ語訳「ターヘル=アナトミア」を元にした、
我が国初の本格的な「翻訳書」であり「解剖書」…「解体新書」。
満足な辞書・辞典のない中、編さんにあたった「前野良沢」「杉田玄白」らは苦労を重ね、
4年を費やし、改稿を11回重ねて、安永3年(1774年)に完成させた。
…とは、社会の授業で習ったとおりである。

同じ頃、津幡町ではこんな出来事があったらしい。

『1774(安永3)年から翌々年にかけて大雪が続き、
 山奥でエサがないイノシシが多く出没し、山里の作物を食い荒らしました。
 そのため、藩では役人を派遣して大規模なイノシシ狩りが行われ、
 数千頭が殺されました。』
 (※津幡町観光ガイドHP「猪塚(ししづか)」より抜粋・引用、原文ママ)
 (※2011年11月27日に関連投稿アリ)

単純に「残酷」と断定してはいけない。
猪を屠らなければ、暮らしが脅かされたのである。
14世紀末頃から19世紀前半ばにかけては、
世界的に寒冷化が進み、現在に比べ、1~2℃気温が低い「小氷期」。
津幡町にも、少なからず異常気象の影響があった一例だろう。

果たして、冒頭の墓石の下に眠る先達もまた、
厳しい自然環境に斃れたのだろうか?
一体、どんな人生を歩み、何歳まで生きたのだろうか?
川風に吹かれながら一頻り思いを馳せ、僕は手を合わせた。

…合掌。
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公布に見る変化。~津幡町青少年の家にて。

2013年05月27日 07時50分42秒 | これは昭和と言えるだろう。
今回の投稿は、前回の続編にあたるかもしれない。

…「今日の一枚」は、行政からのお報せ。
少々以前の事になるが、津幡町文化会館「シグナス」の掲示板に貼り出されていた。
以下に、一部を転載する。

『津幡町青少年の家管理規則の一部を改正する規則をここに公布する。
 平成25年3月28日
                    津幡町教育委員会委員長 ○×□
 津幡町教育委員会規則第2号
  津幡町青少年の家管理規則の一部を改正する規則
  津幡町青少年の家管理規則(昭和45年津幡町教育委員会規則第2号)の一部を
  次のように改正する。
  第2条中「次の各号」を「次」に改め、同条1号中「青少年学級生、勤労少年」を削る。』
                           (※公布文より抜粋、ほぼ原文ママ)

注目したいのは「勤労青少年」である。
青少年保護育成条例などでは、青少年とは18歳未満の未婚の男女を指す。
これを基準に考えるなら、勤労青少年とは、
親元を離れて就職した18歳未満の若者や勤労学生と言えるだろう。
そして、上記条例が発布された当時、世の中には少なからぬ「勤労青少年」がいた。

昭和45年(1970年)頃までの地方では、
高等学校などに進学させる金銭面の余裕がない世帯が多かった。
そこで、義務教育を修めた中学卒業者たちが、
都会の工場や商店で職を得るための「集団就職」が行われた。
昭和29年(1954年)に始まり、最盛期には全国でおよそ8万人を数えたが、
その後、次第に低下。1980年代に入り姿を消した。
同時に「勤労青少年」は、マイノリティとなったのである。

…そして、社会の変化を鑑み、津幡町青少年の家に関するルールが改定された。
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津幡町青少年の家にて。

2013年05月26日 20時04分30秒 | これは昭和と言えるだろう。
「今日の一枚」は「津幡町青少年の家」。
津幡町消防本部と津幡町浄水場に挟まれ、表からは見えにくい位置にある為、
もしかすると印象は薄いかもしれない。
しかし、個人的には思い出深い場所である。
…僕がカブスカウト隊員だった当時、しばしば、2階の畳敷きの部屋が、
集会やクリスマスパーティーの会場になったからだ。
それらの多くは、おぼろげな記憶しかないが、
何故か『遠き山に日は落ちて』の練習をした事は、よく覚えている。

『遠き山に日は落ちて
 星は空を 散りばめぬ
 今日のわざを なし終えて
 心かろく やすらえば
 風はすずし この夕べ
 いざや 楽しき まどいせん♪』
(作詞:堀内敬三/作曲:アントニン・ドヴォルザーク)

チェコ・ボヘミア生まれの作曲家による「交響曲第9番~新世界より」。
その第二楽章のメロディに歌詞をつけた作品だ。
物悲しくも美しい旋律と相まって、
暮れなずむ空の下、一日の労働を終えて家路につく様子が思い浮かぶ。
ちなみに津幡町内中心部では、午後6時になると、
各所に設置されたラッパスピーカーから、この曲が流れて来るのだ。

…とまあ、僕の追憶はともかく「津幡町青少年の家」に話を戻そう。
この施設が開設されたのは昭和45年(1970年)4月。
次の役目を担うべく建てられた。
『青少年の家は、青少年に集団訓練や共同学習の場を与え、
 規律ある活動を通して健全有為な人間教育を図ることを目的としている。
 ①青少年に関する講習会や研修会・研究会・講演会など。
 ②青少年の余暇利用、娯楽・体育レクリエーション等のための諸会合の開催。
 ③その他青少年の家の設置の目的にふさわしい行事など、
  幅広く活用されるべきものである。』(津幡町史より引用:原文ママ)
開設間もない昭和46年の利用状況は、
青年団、ボーイスカウト、子ども会、料理実習など、延べ49回・1,279名に上る。

…それから40数年、昨今はどれほどの方が足を運んでいるのか分からないが
玄関口には次の看板が掲げられていた。
@「津幡町手をつなぐ育成会」
@「社団法人 石川県猟友会河北支部」
@「津幡町クレー射撃協会」
@「津幡町青年団協議会」…と、幾つかの「窓口」を兼ねている。
兎にも角にも、現役なのである。
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