つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

小品、紅梅。

2024年02月25日 07時00分00秒 | 草花
                      
このところ北陸の気温は低空飛行が続いている。
少し以前は春の陽気に包まれたが、今週に入り一変。
冷たい雨に霙(みぞれ)が混ざる事もあり、
まだ暖房・防寒具は手放せそうにない。
そんな中、寒さに負けるなと励ましてくれる1つが「梅」の花だ。



俗に「梅は百花の魁(さきがけ)」と言う。
先頭を切って咲き、春を告げる花枝の下に身を置けば、
馥郁たる香りが実に心地いいのだ。
現代では、花見で愛でる花といえばもちろん桜のこと。
しかし、かつて奈良・平安時代の花の鑑賞といえば、梅を指す。
その人気ぶりをうかがえるのが『万葉集』。
桜を詠んだ歌が43首に対し、梅を詠んだ歌は110を数える。
一例を挙げてみよう。

残りたる 雪にまじれる梅の花 早くな散りそ 雪は消(け)ぬとも

作者は「大伴旅人(おほとものたびと)」。
地上の雪と樹上の梅の花を対比して詠った。

梅の名前の由来は--- 実が熟する「うむみ(熟実)」から転じた。 
薬用として渡来した燻し梅「烏梅(うばい)」が元など諸説アリ。
遣唐使が大陸の文化と共に薬木として大陸から持ち帰った帰化植物。
(※日本自生説もアリ)
日本の風土によく合い、平安時代に広く普及した。
花言葉は、忠実、気品。
寒さに負けず可憐な花を咲かせる姿によく合う。



ともあれ古くから親しまれてきた花だけに、慣用句・諺も多い。
@塩梅(あんばい)。
 昔は、酸味と塩味で料理の味を引き立てる「梅酢」が調味料として使われた。
 いわば料理用語であり、物事の程度を表す表現にもなった。
@花も実もある。
 外観も美しく、内容も充実していること。
 春に先がけて花が咲き香り、実っては健康食品として役立つことから、
 この場合の花は「梅」を指すのではないかと思われる。
@梅はその日の難のがれ。
 朝、出掛ける前に梅干を食べると、その日は災難をまぬがれる。
 梅に殺菌効果があることは、よく知られるところだ。
@栴檀(せんだん)は双葉より芳し/梅は蕾より香あり。
 才能のある人や大成する人は、幼い頃から傾向が見えることを、
 蕾の時からよい香りを漂わせる梅に例えた。
@梅干しと友達は古い程良い。
 梅干しは長く漬けたもののほうが味がよく、
 友人は昔から付合っている人ほど気心が知れ、信頼できるという訳だ。

拙ブログをご覧の皆さまの周り、梅の咲き具合はいかがだろうか?
                
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時を紐解く愉しさ。

2024年02月18日 19時00分00秒 | 日記
                          
今(2024/02)津幡町ふるさと歴史館「れきしる」にて、
企画展「石川中央都市圏考古資料展~古代編」を開催中。
先日、足を運び見学してきた。



南北に長い石川県の真ん中あたりに隣接した4つの市と2つの町、
金沢市、白山市、かほく市、野々市市、津幡町、内灘町の「石川中央都市圏」では、
古くから人々が生活し、文化を築いてきた。
それぞれ、縄文から近世までの史跡や考古資料が数多く残されている。
これからの歴史遺産の保存活用のため4市2町が連携。
考古資料の巡回展を行っている。
その中から、津幡町の「北陸道」に関連する展示を取り上げてみたい。



古代の北陸道は、都が置かれた畿内と日本海側中部を結ぶ官道。
上掲地図赤丸に位置するわが津幡町は、
ちょうど越前⇔加賀・能登⇔越中の中継分岐点である。
道往く人馬の拠点--- 宿泊場所、馬の補給地になったのが「駅」。
北陸道に「深見(ふかみ)駅」と呼ばれるところがあったことは記録に残っていて、
現在の津幡町辺りと推測されるが、まだ正確な所在地は特定されていない。
候補の一つに挙げられるのが「北中条(きたちゅうじょう)遺跡」だ。



河北潟に面するやや高い土地に位置する「北中条遺跡」は、奈良時代後期の跡。
そこからは、井戸の痕跡、古代のメモ「木簡」などに加え、
沢山の「墨書土器」---墨で字を書いた土器が出土している。
なかでも「深見駅」と記されたものが発見された。
上掲画像はそれではないが、展示物の1つ。
1200年間も土の下に埋まっていたのに褪せていない。
改めて墨は凄いツールだと感心する。
いったい誰が、何のために認め(したため)たのか?
墨文字を見詰めながら、しばし古代の暮らしに思いを馳せた。



もう一つ、深見駅の候補地と目されるのが「加茂(かも)遺跡」。
津幡町とお隣の富山県・小矢部市を結ぶ「津幡北バイパス」の高架下にあたるここは、
石川県でも有数の遺跡密集地帯。
古代北陸道の道路遺構、大溝、40棟以上の掘立柱建物、井戸などが確認されている。



多量の墨書土器・木製食器などとともに一枚の木簡が出土したのは四半世紀前。
上・下端部を欠く縦23.3センチ、横61.3センチの長方形のヒノキ材で、
表面の墨色は殆ど失われていたが、字画部分が盛り上がっていたため判読が可能。
解読の結果、平安時代前期の命令書を路傍に掲示したものであることが明らかに。
国の重要文化財「加賀郡ぼう示札」だ。
発令者は加賀郡司。
宛先は郡内の「深見村」有力者。
故に、北陸道に設けられた「深見駅」関連遺跡と考えられる。

北中条と加茂、どちらが深見駅なのか?
それぞれに存在を匂わせるものの決定打に欠けるのが現状。
今後の調査研究に期待したい。



企画展「石川中央都市圏考古資料展~古代編」は、3月17日(日)まで開催。
窯跡群、寺院跡、墓跡、荘園、北陸道と、
集落遺跡の5つのテーマごとに整理し計146点が閲覧できる。
古代の時を紐解き、ロマンに浸ってみてはいかがだろうか。
                    
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女たちのブルーズ。

2024年02月10日 18時00分00秒 | 手すさびにて候。
                       
古くから近世に至るまで、日本人は「眼疾」に悩まされてきた。

江戸時代、安永4年(1775年)に来日した外国人医師は、
薪炭の煙と、トイレの臭気・ガスが原因と記している。
その指摘が全てではないが、確かに氷山の一角。
囲炉裏から立ち上る火の粉や煤煙、未舗装路から舞い上がる土埃。
低い栄養状態に起因するビタミンの欠乏。
極端に暗い照明、対抗薬のない様々な疫病など、
現代に比べ眼を病む要素が身近に溢れていた。

運悪く盲目になれば、職業の選択肢は限られる。
鍼や按摩で生計を立てるか、あるいは遊芸で糧を得るか。
--- 今投稿の主役は後者。
光を失い、生きる為に旅をして、歌を届けた越後の女性たちを取り上げてみたい。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十四弾「瞽女(ごぜ)」。



「この下に高田あり」

冬になると豪雪に埋もれる新潟県上越・高田には、
江戸時代、そう書かれた高札が立っていたという。
この町で生まれた設えが「雁木(がんぎ)」である。
家の前に庇を張り出し、道路が雪で塞がれても往来ができる空間を確保した。
総延長12kmに亘り連なる雁木は、令和の今も街並みを特徴づけている。



その雁木通り界隈には、かつて「瞽女」たちの家があった。
瞽女は、目が不自由な女性旅芸人のこと。
明治半ばの最盛期には17軒90人あまりが暮らしていたとか。
厳格な戒律を持ち、共同で規則正しい生活を送りながら三味線と歌の稽古を積んだ。
数時間に及ぶ語り物、俗曲、流行り唄、民謡などレパートリーは多種多彩。
もちろん全て口伝であり、耳で覚え脳裏に刻み付けなければならなかった。

記録に瞽女が登場するのは室町時代。
当時の絵巻物に「琵琶法師」と共に描かれ、
江戸時代までは、ほぼ全国的に活動していたことが分かっている。
中でも、上越・高田のそれは広範囲。
越後各地~信州は言うに及ばず、関東・東北地方へ。
更に、出稼ぎ漁に便乗して、遠く蝦夷(北海道)まで渡った。

瞽女旅のユニットは3~4人が基本。
晴眼の「手引き」が先頭を担い、後に続く者は前の荷物に指をかけ歩く。
背負うのは生活道具一式をまとめた、重さ15キロの大風呂敷。
一行は心を1つにして、険しい峠や雪道を乗り越え、日に何キロも移動した。



馴染みの村へ着くと、まず「門付け」。
家々の玄関先で短い歌を披露し、報酬に金銭や米を受け取る。
夜は地主や豪農が提供する宿に泊まり、
集まった村人の前で夜が更けるまで演奏するのが常。
農山村の人々は、来訪を心待ちにしていたのだ。

高い期待感の訳は、娯楽が少ない時代だったという点は大きい。
だが、それだけではないだろう。
彼女たちはエンターテイナーとしてだけではなく、
「縁起のいい幸運の使者」だと歓迎された。
鉄道も自動車もなかった当時、旅は「冒険」のニュアンスを含む。
集落の外--- 遠い異界から困難を克服してやって来る盲人に対し、
ある種「畏敬」の念を抱いていたと考えるのは、無理がないように思う。

特に熱心に耳を傾けたのは、農家の嫁。
泥と汗にまみれて働き、家父長制度の下で我慢を強いられる中、
瞽女さんは「気晴らし」を与えてくれた。
演目が楽しい曲なら、手を叩いたり笑ったり。
泣き節なら、瞬きもせず食い入るように聴き入った。
また宴の後は、暮らしの愚痴を零し、悩みを打ち明けたという。
思いを受け止めてあげるのも、瞽女さんの役割だった。

そうして連綿と続いてきた瞽女の文化にも変化が起こる。
太平洋戦争~戦後の農地改革により、活動を支えてきた地主階級が没落。
ラジオやテレビの普及が新たな娯楽をもたらし、需要が減り、
昭和39年(1964年)を最後に、瞽女旅は消失した。

洗練された音楽ではないかもしれないが、
力強さと迫力、内包した情念が胸に迫る瞽女唄。
それは、女たちのブルーズ。
厳しい境遇を耐える聴衆と、辛い過去を背負う演者が、
数百年に及ぶ歴史を紡いできたのだ。

自らも隻眼だった作家「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」は、
日本語に通じる前に瞽女唄を聴き、友人に宛てた手紙にこう記している。
『私はこれほど美しい唄を聴いたことはありません。
 その女の声には、人生の一切の美と哀愁が、一切の苦痛と喜びが、
 戦慄のように、また小刻みに打ち震えていました。』

<後 記>

瞽女さんに興味を抱くようになって以降、
僕は2度、上越市高田の瞽女ミュージアム高田」(LINK)へ足を運んだ。



施設を訪れる前、瞽女さんに対しては、
近代化の過程で滅びた世界であり、過去の因習に縛られた歴史の暗部。
そんな印象が強かった。
だが、様々な資料を閲覧し、話を聞き、一味違うと気付く。
障害を受け入れ、芸を磨き自立して生きる彼女たちは実に逞しい。
また、彼女たちを支えた土壌と「温もり」があったことを知る。
拙作・拙文が、何かしら貴方の心に触れたならば、誠にもって幸い。
そして機会が許せば、上越高田へ出かけてみてはいかがだろうか。
                              
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立春、りくすけ(犬)逝く。

2024年02月04日 20時33分33秒 | りくすけ
                        
それは今朝の事だった。
長年(15年間)連れ添い、共に時間を過ごした愛犬が死んだ。
去勢雄のチワワ、名前は僕のブログネームと同じ「りくすけ」。
極めて私的な不幸ではあるが、このブログを立ち上げるキッカケを与えてくれた意味で、
記録しておきたいと考えた次第である。



彼と出会い、散歩をするようになり、わが町の風景を撮り始めた。
彼と出会わなければ、こうして貴方に出会うことはなかったのだ。
最期は、同じ寝床に就き僕の腕枕で眠りながら旅立ってしまった。
最近の衰えぶりを見るにつけ、覚悟は固めていたつもりだったが、
いざ「その時」を迎えてみると喪失感の深さは筆舌に尽くし難い。
生きとし生けるものは必ず死ぬ。
それは自明の理と分かっている。
しかし情けないことに、今はまだ現実を受け止められないでいる。
                       




寒い冬、うららかな春、暑い夏も錦秋も。
思い出を積み重ねながら共に歩を進めてきた愛犬へ、
万感を込めて一言だけ贈りたい。
離れたくはないが命が尽きてしまうのならば、左様ならば致し方ない。

サヨナラ、りくすけ。


                                
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