つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡町での初めて物語⑥

2012年09月18日 23時55分32秒 | 初めて物語
“シリーズ津幡町での極めて個人的初体験”その6。
「今日の一枚」は、近所の畑に実る「キウイ・フルーツ」だ。

その故郷はアジア。
中国は長江流域と言われている。
やがて1900年代の初頭に、南半球・ニュージーランドへ伝播するや、
気候と風土との相性がよく、短期間で同国を代表する果物に急成長。
名前の由来は、卵形で茶色の毛で覆われた様子が、
ニュージーランドの国鳥「キウイ・バード」に似ているからだそうだ。
最もこれは俗説なので、真偽のほどは定かではない。

ともあれ、僕がこの果物を食べたのは、確か中学生だったと思う。
そのファーストインプレッションは「珍奇」。
まず、果肉が鮮やかなグリーンなのに驚いた。
次に、中心部のシャリ感…多繊維にビックリ。
更に、酸味の強さが突出していたのが印象的。
思えば、まだ固く十分に熟していない状態で食べた気がする。

ちなみにキウイ・フルーツが日本に紹介されたのは、
昭和40年(1965年)頃。
石川県・野々市町と加賀市が、
先鞭を付け、昭和48年(1973年)に本格導入。
当時のヒットナンバーは…
ガロ、学生街の喫茶店。南沙織、色づく街。 
チューリップ、心の旅。アグネス・チャン、草原の輝き。 
フィンガー5、個人授業。あのねのね、赤とんぼの唄など。
「花の中3トリオ」がデビューを飾り、
「ブルース・リー」が他界した年である。

それから39年。
生産過剰となったみかんに代わる品目として注目され始め、
みかんの産地を中心に急速に普及・拡大したキウイ・フルーツ。
果たして、野々市と加賀には根付き関連商品も誕生しているが、
津幡町では未だ個人栽培の域を出ない。
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津幡町での初めて物語⑤

2012年07月07日 17時04分44秒 | 初めて物語
シリーズ津幡町での極めて個人的初体験”その5。

以前にも投稿したとおり、現在の津幡中学校の校舎には、
僕が通っていた頃の面影は殆ど残っていない。
故に、建物から感銘を受ける事は皆無に等しいのだが、
数少ない例外の一つと言えるのは「今日の一枚」。
…昔と変わらぬデザインの「校章」である。
そして、この校章を身につけていた中学2年生当時、
初めて「英語詞の歌」を覚えた。

あれは音楽の授業での一幕。
お名前は失念したが、
教鞭を取っていたのは、セミロングの黒髪が印象的な女性教師。
教壇に立つのがどこかまだ不慣れな様子で、
顔にはニキビもあったように記憶している。
彼女が一枚のLPレコードを持参して登場した。
そのジャケットがコレ。

       

赤いドレスに身を包み、ギターを抱えた女性の名は「Joan Baez」。
1960年代に“フォークの女王”と呼ばれたアメリカのシンガーソングライターの
日本公演ライブ音源盤である。
女性教師は、レコードに針を落とす前、黒板に歌詞を書いた。

We shall overcome, we shall overcome, We shall overcome someday
 Oh, deep in my heart, I do believe, We shall overcome someday.
We'll walk hand in hand, we'll walk hand in hand, We'll walk hand in hand someday
 Oh, deep in my heart, I do believe, We shall overcome someday.
We are not afraid, we are not afraid, We are not afraid today
 Oh, deep in my heart, I do believe, We shall overcome someday.

『この歌は「We Shall Over Come~勝利を我らに」と言います。』
…と口火を切って、その意味を説き、曲の背景を説明してくれた。
『「Joan Baez」のデビューは、昭和34年(1959年)。
 当初、トラディショナルフォークやスタンダードナンバーで
 ヒットを飛ばしたが、ベトナム戦争が激化する中で作風が変化し、
 反戦メッセージソングを数多くリリース。
 安保闘争に揺れる昭和42年(1967年)初来日を果たし、
 各地を熱狂に包んだ…』云々。

そして、レコード盤が回り始めると、シンプルで力強いセンテンスのつながりは、
繊細でいて艶やかな伸びのあるソプラノになって耳を打ち、心を撃ち抜いた。

授業が終わった後、
僕は、頭の中で「We Shall Over Come~勝利を我らに」を何度も反芻した。
美しいセンセイの面影と共に。
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津幡町での初めて物語④

2012年06月02日 21時51分50秒 | 初めて物語
“シリーズ津幡町での極めて個人的初体験”その4。

「今日の一枚」は、最近お気に入りのドリンク「ORANGINA」である。
発売元「サントリー」の商品紹介HPによると…
『フランスで1936年から愛されてきた、オランジーナ。
 太陽をたっぷりあびたオレンジを、たっぷり使ってシュワッと炭酸。
 うれしい時も、すこし落ち込んだりした時も、
 フランス人をシュワッと元気づけてきました。
 あの女優も、あの画家も、あの大統領も、きっと飲んでいたこのオランジーナ。
 ボンジュール・ジャポンとばかりに、ついに日本上陸です。』
…と紹介されている。

自販機のポップには『フランスの国民的炭酸』とあるとおり
発売以来70年以上の歴史を持つ。
現在、ヨーロッパをはじめ世界60ヵ国で販売されているが、
今年ようやく日本に見参という訳だ。
好みによって是非はあろうが、個人的には美味しいと思う。
何故なら、初めてオレンジを口にした時の感覚と似ていたからだ。

オレンジの輸入にゴーサインが出たのは1980年代初頭。
ちょうど、日米間では農産物貿易摩擦問題が取りざたされていた。
日本の農家は外国からの圧力に強く抵抗したが、
カリフォルニアから押し寄せた新しい柑橘は、津幡町の食卓にも進出。
果肉は多汁で甘みが多く、香りも豊か。
温州蜜柑とは違った味わいが、なかなか衝撃的だった。

思えば、グレープフルーツやレモンが身近になったのも同じ頃か?
甘酸っぱく爽やかなテイストは、
実のところ、日本の蜜柑農家への宣戦布告だったのである。
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津幡町での初めて物語③

2012年05月30日 07時48分28秒 | 初めて物語
“シリーズ津幡町での極めて個人的初体験”その3。

「今日の一枚」は、夕日に染まる津幡川。
おそらく川尻水門が閉じられているためだろう。
また風が止んだためでもあるだろう。
穏やかで波一つ立っていないように見えるが、実際は違う。
僕の携帯電話のカメラでは捉えきれていないだけで、
鏡面のような川面には幾つもの波紋が起きていた。

魚が水中から浮かび上がり、束の間、水面に顔を出してはまた沈む。
そんな行為が、川のあちこちで何度も繰り返されていた。
呼吸のためだろうか…?
水の中の酸欠は、例えば、水温上昇で酸素が溶け込み難くなる、
バクテリア増殖によって水中の酸素が一気に消費されるなど、
水質や環境の変化によって一瞬に起こると聞いた。
おそらく、僕が目にしたのは、こうした理由だったと推測する。

…しかし、小学生だった僕が初めてこの現象を目撃した時、
何らかの毒物が原因ではないかと思い込んだものだ。

当時は、環境汚染と公害病が問題になっていた時期。
水俣病、イタイイタイ病、カネミ油症、四日市喘息は、
“四大公害病”と呼ばれ大きな被害を出し、世間の耳目を集めていた。
東宝映画のドル箱・ゴジラシリーズでは、
1971年に公害をモチーフにした怪獣「ヘドラ」が登場。

 

宇宙から飛来した鉱物が、静岡・田子ノ浦のヘドロと結びつき変異・発生。
最初はオタマジャクシのような状態だったが、
化学工場の煙突に取り付いてスモッグを吸い、有機廃棄物を食べて成長。
排気ガスを噴射して空を飛び、直立2足歩行で素早く地上を移動しながら、
硫酸の霧を吹きかけ、汚染物質の爆弾を打ち出す、恐ろしい怪獣だった。
映画館の暗がりの中、その異様な迫力に圧倒された。

また、ヘドロにまみれた海がスクリーンに大写しとなり、
こんな歌詞の歌が流れた。

♪水銀、コバルト、カドニウム、鉛、硫酸、オキシダン、
 シアン、マンガン、バラジウム、クロム、カリウム、ストロンチウム
 汚れちまった海、汚れちまった空
 生き物、みんな いなくなって 野も山も黙っちまった

…公害と環境汚染の恐ろしさが刷り込まれた無知な子供が、
前述した川面の異変を勘違いしたとしても、無理からぬ事だったのである。

                  (※2010年5月19日に関連記載アリ)
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津幡町での初めて物語②

2012年05月03日 11時06分50秒 | 初めて物語
“シリーズ津幡町での極めて個人的初体験”。
「今日の一枚」は、左右を建物に挟まれた「名もない狭き川」。
今から36年前、昭和51年(1976年)の夏の午後、
僕はここで、生まれて初めて「泳ぐ蛇」を見た。

目撃した時期や光景を鮮明に覚えている理由は2つある。
1つは「鮮やかな対比」だ。

下水道が完備された今と違い、当時の姿は典型的なドブ川。
周囲からの汚水が注ぎ込み、時折異臭を放ち、濁っていた。
その水の上を往くのは、一匹の「白蛇」。
細長い体をくねらせながら滑るように進んでいたのである。
茶色く淀んだ水。
目が覚めるほど真っ白な蛇。
強烈なコントラストが目に焼きついた。

もう1つの理由は「畏敬の念」。

僕は、ある人物と白蛇とを重ね合わせていたのである。
その人の名は「ナディア・コマネチ」という。

        

当時ちょうど、日本から遠くカナダ・モントリオールでは
夏期五輪大会が開催中。
「コマネチ」が所属するルーマニア女子体操代表チームのレオタードは、
腕から腋~腰にかけて走る三色の細いラインと、胸元の国章の他は純白。
中心選手だった彼女は“白い妖精”と呼ばれ、
競技史上初の10点満点を7回も記録し、
金3個、銀1個、銅1個のメダルを獲得。
圧倒的に強く美しく、同時にどこか冷たい印象を抱いた。
独裁政権下の社会主義国。
謎のベールに包まれた東欧の国の少女。
演技中の憂いを含んだ厳しい眼差し。
こうした点から、勝手に一種近寄り難いような、
孤高のイメージを持ったのかもしれない。

誰にも邪魔されず、汚れた水にも染まらずに泳ぐ、一匹の白く美しき蛇。
前評判の高かった赤い大国・ソ連を凌駕した、純白の美しきアスリート。
どちらも決して手が届かない、少年の日の「憧れ」だったのである。

 

(※2011年6月11日の投稿に関連記載あり)
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