ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

復活 2

2012-03-18 17:27:30 | 宝塚コラム

 出演者について

 

蘭寿とむ・・・ネフリュードフ。

       「包容力」を引き出す筈が、逆にそれがない事を暴露してしまった感じ。

       全ての台詞、シーンが能面のように淡々としてて感情が伝わって来ない。

        元は熱い人で色気むんむんだった人なのに、そういうのが全部落とされ

       て冷めちゃった?前楽だったから疲れてるだけ?

蘭乃はな・・・カチューシャ。目立たないのに驚き。娘役の中に埋もれてしまいそう。

       演技力がどうのとかいう前の問題。また、男役をたてるタイプではないので

       蘭寿が引き立たず、自分も埋もれるのは。

壮一帆・・・シェンボック。「静」のネフリュードフに対して「動」のシェンボック。

       生き生きと楽しそうに舞台上を動き回っていたし、アニエスとのやりとりも

       微笑ましく。台詞も一番説得力があったと思います。

       壮はショーでも大活躍で、こんなに朗々と歌う彼女を見る事になるとは

      思わなかった。伊達に学年が上がってはいないんだなと。

       何となく今の花組の中で「陰のトップ」的な存在になりつつあるのでは?

愛音羽麗・・・ソモンソン。むしrネフリュードフ系が似合いそうな人ですが、

        あからさまに下げられてて気の毒すぎました。

朝夏まなと・・・セレーニン。うーん・・・よくわからない。

望海風斗・・・・ミハイル。台詞回しがしっかりしてて、見た目もすっきりしてて

        かなり好感触。エトワールも似合っていたし。結構先が楽しみかも?

月野姫花・・・アニエス。声に観客の好き嫌いが出るとは思いますが。声量も多くないし

        アニメっぽい感じがしますけど、とにかく可愛い。

実咲凛音・・・ミッシィ。大人の女性を演じられる人ですね。ショーでも蘭乃と対の

       シーンが多く、「別格」なんだなあと。

 

「カノン」は面白くないショーでした。

蘭乃はなの体が柔らかいのはわかったけど、それ以外はひたすら壮一帆の

歌を聴きに行ったような感じ。

 

蘭寿とむは花組に返り咲きしたトップで、半分は生え抜きと同じです。

壮とも一緒にやってた仲間の一人でしょうし

だからもう少し組がまとまって・・っていうか、一丸となって蘭寿を盛り上げていくのか

と思っていたんですが。

昨日、見た限りではそういう雰囲気でもないんですね

蘭寿は自分の事で精一杯で、本来の魅力がまだ出てこないし、蘭乃は自分がいかに

踊れるかを披露したがっているだけ。壮はすでに悟って自己流を貫き通し

下級生は誰をお手本にしたらいいかわからず右往左往している状態

前任の真飛聖からは何も学ばなかったようですね・・・・・

さらに未涼亜希の不在で頼りなさが全開した印象があります。

今の花組に必要なのは「熱さ」でしょうか。

コメント (8)
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復活  1

2012-03-18 16:54:09 | 宝塚コラム

蘭寿とむが花組トップになって、初めて舞台を見るのね・・・・・

今や、花組って誰が誰やらわからなくなってました。

 

 復活 

 石田先生が描きたかったもの

原作は読んでません。しかし、舞台を見た後、激しく原作を読みたくなりました。

なぜって、結末がはっきりしないからです。

石田先生はパンフレットに「男役は「忍」の役を経験する事で「男役芸」が完成する。

男役に一番大事なのは「包容力」で、これがないのにキザっても無駄・・・という事で

あえて蘭寿に「忍」の役をやらせる事によって男役芸の完成をめざし、蘭寿の「包容力」

を引き出そうとした・・・らしい

それが成功したかどうかは後述するとして。

1時間30分にまとめるには長すぎた作品ではなかったかと思います。

同じロシア文学でもプーシキンでしたっけ?「大尉の娘」(By柴田侑宏)は

かなりうまく出来た作品でしたが。

でも、今回は大急ぎであらすじを観客に伝える事が仕事・・とでも言うように

次から次へと話が展開していくんですね。それって斉藤吉正の「カラマーゾフの兄弟」

と似たような作りで。でも斉藤君よりはわかりやすく見てても違和感なし・・・と

いうところ。

脚本に破綻はないものの、山場もなし。淡々としすぎててネフリュードフの真意が

伝わって来ません。カチューシャに何をどう言われ様と言われっぱなしで、

怒ってるのか悲しんでいるのか・・って思っているうちに振られて20世紀になっちゃった。

みたいな?

ここに宝塚でロシア文学を描く限界を見たような感じがしました。

ロシア文学って非常に奥が深いし、特に帝政を描くにあたっては当時の階級意識

とか革命意識などをきちんと理解した上で原作を読まないと登場人物の感情や

動きが理解できないでしょうし、そこにも伏線がいくつもはられていたり、比喩が

あったりで、とても一筋縄じゃいかないんですよね

「カラマーゾフの兄弟」も原作を読んでから見ると「なんじゃこりゃ?」の世界で

「確かに主筋はああかもしれないけど、作者が言いたかった事はあれなのか?」

と思ってしまう部分が多々あり。

多分「復活」に関しては読む側の解釈も様々で、その点をふまえつつ、当時の政治

状況、貴族階級の退廃、弱い人達の立場などを明確に理解し、その上で彼らの

動きが「偽善」「愛」「贖罪」と考えなくてはならなかったのかと思います。

ゆえに、もう少し脚本を掘り下げていく必要があったと思うんですが、それをやって

しまうと非常に理屈っぽい不条理劇みたいになってしまい・・・

それじゃ宝塚じゃなくなってしまう。

宝塚の場合は「愛」が全てのテーマですし、主人公は「悪」であってはいけないので

ネフリュードフのカチューシャへの対応は常に「真実の愛」という事にならないと

いけないわけですね。

でも、そうなると、カチューシャが愛を重荷に感じつつもやっぱり断ち切れない、

断ち切る為にシモンソンと結婚するという展開が微妙になってしまう

宝塚的にはカチューシャはネフリュードフと結ばれるべきであり、シモンソンは

敵にならないといけない筈なのに。

ここには「法律」「法を守るものの欺瞞」以外の「悪」が一つも描かれないので

結果的にネフリュードフが何と戦っているのかわからなくなり、ラストシーンに違和感を

覚えてしまうのでは?

最初にカチューシャの純潔を奪い、妊娠させたネフリュードフは「悪」

でも、貴族社会ではそれは「悪」ではない。

8年後に再会し、かつてもて遊んだ女性が転落している事をしり、罪悪感にかられ

財産も身分も投げ打って彼女を救済しようとする

でもそれが「善」と言えるかどうか。

回りに責められ、カチューシャに拒まれても尚、助け続け、結婚を考える。

カチューシャの方はそれを嬉しいけど重いと言う。

「それは愛じゃないでしょう?贖罪でしょう?自己満足じゃないの?」

そう問われてネフリュードフは悩む・・・(筈だけど舞台では悩んでないで突っ走る。

一歩間違えばストーカーになりかねない勢い)

やがてカチューシャは「この人を止めないと。彼が幸せになってくれないと私も

また罪悪感を抱えたまま生きるハメになる。でも私と結ばれても彼は幸せではない。

それなら彼を元の場所に帰そう。それが最善の方法」と考え、シモンソンと結婚。

あて馬にされたシモンソンの気持ちを果たしてカチューシャは考えたかどうか。

ネフリュードフはカチューシャの結婚によって「解放」されて、

20世紀をあらたな気持ちで生きる。妙な達成感がある?

でも観客としては「だから何?あれでいいわけ?」と消化不良状態です。

「愛はどこへ行った?結果的に単なる偽善?それとも貴族様の道楽?

どっちだったのよ!!」と詰め寄りたくなる

 

休憩中、パクパクとお昼を食べながら観客の一人が

ロシア文学って難しくて全然わからなーーい」と明るく話していました。

多分、その先にあるものは「でも蘭とむがかっこいいからいいっか

宝塚はそれでいいのよね。

 

コメント (2)
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