ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

韓国史劇風小説「天皇の母」51(フィクションだってば)

2012-05-15 07:00:00 | 小説「天皇の母1話ー100話

皇后陛下にはご健勝のご様子、何よりです

セツ君はそう言って微笑んだ。

大葬からこっち、色々あってお疲れでしょうに参内をお許し下さって感謝しています。

ご大葬の日は大変寒くて、私などはぶるぶる震えてしまいましたが。

それも天が陛下をお連れになる為の儀式と思えばこそ・・・」

お風邪をひかれるのではないかと心配申し上げました」

まあ。丈夫なだけがとりえの私ですから。でも最近は足が弱くなりましたの。

公務に出るのも時々億劫に感じる事がありますのよ。それに今になって先帝陛下

や宮様との思い出が心を締め付けて、たまらなくなる事も。歳をとるというのは

そういう事ですわね。宮様と私は短い間でしたが幸せでした。貞明皇后様も

私にはお優しくてね。私もそれをいい事に、大変なことは全部皇后様・・いえ、皇太后

様にお任せして宮様の看病に日々を費やしておりました」

はい

皇后は何をどう答えればいいのかわからなかった。

突然始まった思い出話。それを延々としようというのだろうか?

あなたも・・・いえ、陛下もご結婚以来、慣れない環境で本当にご苦労されましたね。

その責任の一端は私にもあると思っていらっしゃるだろうけど」

いえ・・そんな。先帝両陛下を始め、宮様方のお導きがあればこそ務めを

果たしてこれたと思っております。いつもお優しく、時には厳しく叱咤激励して

頂き、本当に感謝しております」

相変わらず優等生でいらっしゃる」

セツ君はにっこりと笑った。

そんな風に隙がないと、お疲れになるでしょう。自然体でよろしいのよ。

気負わず、ただただお上をお支えしていけば。といっても陛下はやっぱり

全身全霊をこめてやってしまうんでしょうけど」

そんな・・・・私はそんな完璧な人間ではありません」

完璧。常にそうあろうとしていらっしゃるだけでしょう。私達のような者に

貶められる事のないようにと。5年10年ならまだしも30年もそれをお続けに

なるという事がどれほど大変だったかと思います。もう身についてしまって

同化しているのかもしれませんが。ヒロノミヤさんはそんな母君をずっと

見ていらしたんですものね。色々お考えがあるでしょうにね」

それはどういう・・・・?」

いえ。あの頃、私もキク君達も両陛下のご結婚には反対しました。

皇族の結婚は皇族・五摂家以下華族から選ばれるというのが基準として

ありましたからね。血筋と家柄が全ての皇室でその壁が崩れたらどうなるか。

多分、私達は本能的に危機感を持っていたのだと思います。

戦前までの価値観やしきたりを全て否定するような世の中にあって、皇后陛下の

存在は古い人間を否定する象徴として映ったのも本当の話です。

でもとにもかくにも皇后陛下はやり遂げ、見事にこの国の国母におなりになった。

素晴らしいことです。時代は変わったのだと。

私は会津松平容保の孫として生まれました。ご存知のように会津は賊軍。

私はその直系の孫。本来なら皇室に嫁ぐなど考えられませんでした。

父は直系としての責任を果たすべく爵位を辞退し、叔父が爵位を継ぎました。

私が小さい頃から聞かされてきた話は「会津は賊軍ではない。けれど薩摩や

長州の陰謀によって賊軍にされてしまった。それゆえに維新後の生活は

苦しいものだったし、会津の人々がどれほどの辛酸をなめたかわからないという

ものばかりでした。父は常に「会津の人々の心を考えて行動せよ」と申しており

ました。戊辰戦争で多くの人が死にました。白虎隊や娘子隊。城の中で外で

女や子供たちが自ら命を絶ち、あるいは戦って死に。生き残った人達もまた

流浪の日々を送り・・・その苦しみを思えば私は藩主の孫として心して生きて

いかなくてはならないと常に心に刻んでおりました。

そんな私にまさか淳宮様との縁談が持ち上がるとは。淳宮様は先帝陛下とは

年子の弟君。当時からスポーツの宮様として人気抜群の宮様でしたのよ。

でも私は、私達を賊軍扱いした皇室に嫁がないといけないなんてと、本当に

悲しくて苦しくて泣き明かしたのです。

当時の皇太子殿下のお妃はクニノミヤ家からと決まっていました。それは

明治帝が決めたこと。戊辰戦争の時に苦難の道を歩まれ、お手元不如意になった

クニノミヤ家を心にかけていらした明治帝は皇太子妃を出す事で名誉挽回されようと

したのです。

でも、貞明様は正直面白くなかったと伺っています。貞明様は九条家の出とはいえ

側室の子で里子に出されていた身であらしゃり、クニノミヤ家は皇族。そんな格上の

嫁を迎えることに抵抗がおありだったんでしょう。

でも貞明様は明治帝のご遺志通りになさいました。帝の意思とはそれだけ重いのです。

その代わり、私を会津松平家から、キク君を徳川本家から迎えたのです。

私はただ泣いていたけど、貞明様は貞明様なりに賊軍の汚名を着せられた家への

思いを強くされていて、皇室に嫁がせる事で本当の意味で薩摩も長州も会津も

徳川も一つになさりたかったんだなあと。

そんなお心がわかったからこそ、私も皇室と会津の架け橋になろうと努力しました。

宮様とは短いご縁でしたし、お子もなす事が出来ず、妃としては甚だ不調法で

出来が悪く、陛下に何か言えた義理ではないのですよ」

そんな事は」

陛下は男子を二人も上げられて、お役目をきちんとお果たしになった。

何よりもそれが一番ですし素晴らしいことでした。きっと八百万の神々のご加護が

あるのでしょう」

セツ君はそれだけ言うと、ちょっと時間をかけて立ち上がった。

老人の長々とした思い出話にお付き合い下さってありがとう。陛下もお忙しいのに

本当にごめんなさい。でも先が短い私の話を聞くのもたまにはよろしいのでは

ないかと」

もっともっと聞かせて頂きたいですわ。妃殿下は歴史の生き証人でいらっしゃる。

私達はみな妃殿下から教わらなくてはならない事がたくさんあります」

いいえ・・あの。一つだけ。カワシマキコさんというお嬢さんね。白虎隊の子孫なの。

そのお話を聞いた時ね、私は体が震えましたよ。今も明治帝のお心が

生きているのではないかと」

セツ君はにっこりと笑った。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする