ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

文春レポ3

2014-03-28 07:00:00 | 皇室報道

 子育てを人に任せて公務にまい進するか、公務を抑制しても

出来るだけ子育てを自らの手で行われるか。後者を選ぶ事で、

ご夫妻はしばしば批判を受けてきた。例えば、昭和天皇が私より

公を優先させて来られた思いを今上天皇皇后が受け継がれてきた

歴史を否定するものだという有識者がいる。だが、結果だけにとらわれて

否定していると断定するのはいかがなものだろうか。

公か私か、二者択一の論理にあてはめて論ずるよりも、皇太子ご夫妻が

受け継がれている尊さは他にもたくさんある筈だ。

一般の国民に、そのことを多く伝えられればとねがってやまない。

 (皇族である事に挫折した妃にとって最後の切り札は「内親王の母」で

  ある事だった。その事を優先すれば彼女は「よき母」と言われる。

  そう信じてやまない妃は古来より、天皇皇后に受け継がれてきた

  「私より公を優先する」という伝統をあっさり捨て去った。

  「公」か「私」か、二者択一は簡単に「私」が優先されるようになったのだ。

  皇太子夫妻はセレブな生活をする事こそが「皇族」たるゆえんだと

  思っていた。

  一般の国民に、現在の皇太子一家の在り方が正しいのではないとと

  多く伝えられればと願ってやまない)

 第二子(親王)出産への期待。雅子妃は疲れ切っていた。

 雅子妃は自らも体の異変を感じられて公務先で出会った精神科の医師に

  相談をするほどだった。

  このようにみてくるとご成婚後の雅子妃が必ずしも心安らかに暮らせる環境に

  置かれていなかったことは確かで、雅子妃個人に責が問われることではない。

 (もう出産は嫌だった。不妊治療も嫌だったが、こんなに出産を望まれる事

 自体約束違反じゃないかと。雅子妃の「嫌だ」という感情は大きなストレスと

 なり、無気力感が全体を覆う。それは確かに体調に異変を生じさせた。

 誰がどんな助言を与えても雅子妃は納得しなかった。

 誰かに責任を取らせたい。こんな風な自分にされた事を。その事ばかり

  考えるようになる。

 このようにみてくると、成婚後の雅子妃が世に言う「優秀なキャリアウーマン」で

 なかった事は確かで、その虚像を演じきれなかった雅子妃の罪である)

 

 しかし心無い仕打ちはつづいた。帯状疱疹で入院された直後に

  宮内庁長官から 秋篠宮ご夫妻へ第三子を期待する発言がなされた。

  雅子妃は失意の底から抜け出すことが出来ずにいた。

 (生まれたのが内親王でこの先、出産をしない以上、物事は簡単に

 住む筈だった。まさに娘を天皇にする事だ。簡単な事の筈だ。

 「ひきこもり」「泣き叫ぶ」「責める」という妃のヒステリックな症状に

 さすがの小和田恒氏も手をやき「女帝」を画策。

  しかし、宮内庁長官は「東宮家に第二子を、秋篠宮家に第三子を」と

 発言。雅子妃は怒り狂い、とうとう軽井沢に籠城して離婚を迫った)

 

 翌年の5月「人格否定発言」

   これはまさにプロポーズの際に皇太子が言われた「全力でお守りする」を

  実行に移されたものであった。  その目的はある程度果たされ

  皇太子ご自身は発言を微塵も後悔されてはいないという。

 (「人格否定発言」これにより皇太子は雅子妃が自分の元に戻って

  来てくれると信じていた。しかし、実際にはこれにより、皇太子と雅子妃の

  力関係は完全に逆転した。

  それでも皇太子は微塵も後悔していない。高尚な理想をおしつける両親より

  甘い地位を与えてくれる義父の信頼を勝ち取ったからである)

 

 療養中の雅子妃が公務を休まれて私的に外出をされたのは

  愛子さまの思い出作りと治療のためだった。

  お世継ぎ作りのころは私的な外出を控えられていたことから

  外出はいけないことだという思いがあったという。

   だが医師団は認知の歪みを治すためにも外出を勧めたといわれた。

  だが、宮内庁もマスコミもご夫妻の苦渋を思いやることはなかった。

  その背景には両陛下を慮る宮内庁幹部たちの不満があったことも事実。

 (妹の紹介で知り合った大野医師によって「適応障害」という新しい病名を

 つけられた雅子妃は、私的な楽しみをすべて「病気療養の為」「治療の一環」

 として位置づけ、国民に反論させなかった。レストラン、デパート、ディズニーランド。

 全てが「医師の治療の一環」だった。残っていた良心のかけらを捨て去れば

 あとは気が楽だった。騙されて結婚した10年を取り返そうと妃は暴走を始めた。

 不満に思う宮内庁職員もいたが、巨大な権力の元、次々去って行った)

 オランダ王室での静養後はご進講や公務が増えるなど回復に

   繋がったといわれている。

   妃殿下として自信を喪失された雅子妃が心を尽くされたのは子育て。

   しばしばバッシングのタネになる「校外学習お付き添い」だが、

   事実愛子さまがお一人で登校できるようになっていることを見れば無

  意味なことではなかったのだ。

  むしろ警備体制を含めた皇室の在り方こそが問われるべきだったろう

  愛子さまの不登校の克服は雅子妃にとっても自信になり、

  昨年のオランダ国王の 即位式への出席。東北三県の被災地訪問などの

  ご公務を経て、ご回復は着実に感じられる。

 (数億かけて実現した、皇室初の「私的外遊」も雅子妃の改心を引き出す

 事は不可能だった。雑誌を通じて「オランダ静養時に紀子妃が入院するのは

 失礼だ」とまで書かせた。オランダの城では小和田家を招いて宴会が催され

 悦に入った小和田家はオランダ王室に悪い印象を与えてしまった。

 それだけやっても帰国すると雅子妃は再び引きこもりになり、

 「オランダは都内より近いのか」とまで言われた。

 妃は娘の障碍を隠す為、ありとあらゆる手を尽くした。「いじめ事件」を引き起こし

 学習院を手中に収めると、1年半に及ぶ「付添」によって、独裁体制を敷く。

 これにより娘の状態が外に漏れる事はなかった。

 学習院掌握は雅子妃の強い自信につながり、以後、「取り巻き」による

 恐怖政治が続く)

 

 ご療養が長引くにつれ「雅子妃は皇室に合わなかった」という言葉も

  時折耳にするが、雅子妃のこれまでをたどると、 問題は雅子妃個人

  にあるのではない。

  人的な皇室のあり方そのものを考えていかなければ、

  三たび民間からお妃が入られたときにも同じことが起きないとも限らない。

 「病気療養」と言われて10年が過ぎた。「雅子妃は皇室に合わなかった」

 という言葉も耳にするが、問題はそのような簡単なものではない。

 雅子妃の背後には巨大な反日組織がうごめき、新興宗教団体が舌なめずりをし

 日本が破壊されていくのを待っている。

 皇室の在り方を変える事で権威を貶め、皇室廃止に持って行く・・・日本人の

 心のよりどころを奪うという最終目的は果たされる寸前。

 雅子妃はそういう意味では英雄なのである。

 雅子妃にとっても皇室を思いのままにするという事は、日本を、いや

 世界を意のままに出来るという事で、今今や怖いものなどない)

 ご成婚されて20年が過ぎた。雅子妃は皇室に入られて

   お幸せだったのだろうか。

   東宮関係者「妃殿下は愛子さまをご出産された後の会見で

   『良い人生だったと思えるようにしたい』と述べられたことがありました。

  一昨年の会見文書でも〈四十代最後の年となるこれからの一年の日々を

   大切に過ごしていくことが出来ればと思っております〉と、

  妃殿下としていかにして人生を送るかということを考えておられるのです、

  たとえご病気になっても 妃殿下としてのお覚悟はこれまでと

  全く変わってはいないのではないでしょうか。

  両陛下と皇族の方々に支えられながら皇太子と愛子さまという

  ご家族をもたれたことは何よりの喜びでしょう」

  雅子妃の人生の歩みによって励まされる人たちもいる。

  いつの世も「誠実」は時に誤解を受けやすいが

  これからも雅子妃は自らの証として前を向いていかれるだろう。

 こうした一人のプリンセスの生き方があることを忘れてはならないと思う。

 (皇室入りして20年。今ほど雅子妃が幸せである時はないだろう。

 何をやってもバッシングは封じられ、表向きには絶賛される。

 3億もの税金は使いたい放題。やがて全ての皇室財産は自分のものになる。

 長子相続を主張して娘が皇太子、ないし天皇になればもっと予算を増やせる。

 その時は秋篠宮家には臣籍降下させ、自分達こそが日本でもっともセレブな

 権力者となる。

 それこそが、あの日、自分の意思に反して皇太子と結婚した可哀想な自分への

 癒し、無理に結婚させた両親への壮大な復讐になる。

 そういう意味では雅子妃の考えは結婚当初からぶれていなのである。

 10年後、200年後、雅子妃は日本皇室史上最高の悪女となるだろう。

 こんなプリンセスがいた日本という国の不幸を誰が振り返ってくれるだろう。

 その時、日本という国は残っているのだろうか)

 

友納氏の文章は時々何を言いたいのかわからない時があります。

適当に言葉を並べているだけなんじゃないかと思う時も。

ノンフィクションといいつつも、どこかの少女小説風に演出したり

「事実は違う・・・である」形式の不愉快な文言の数々。

ここまで読む人を不愉快にするライターはそうそういない。

そんな人に原稿料を払っている文芸春秋社というのはどんな出版社

なんでしょうか。

出版社はきづいていないかもしれませんが、友納氏の「プリンセス雅子妃物語」の

おかげで読者の大半は週刊文春に背を向けるようになりました。

なぜなら「信用できない」からです。

週刊誌に記事を書くライターの一人ひとりが気を付けなければならない事は

「自分が嘘を書いたら雑誌全体の信用が落ちる」という事。

文春が他にどんなスクープを報じようとも、あれ以来「しょせんは文春」とか

どこまで本当なんだか」と言われているのは事実でしょう。

空気を読んでさっさと終わらせたけど、もう遅い。

代償は大きすぎますね 法則が来ないように祈るばかりです。

 

 

 

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文春レポ2

2014-03-28 07:00:00 | 皇室報道

 この最終回の捏造ぶりにあまりに腹がたったのでレポします。

  果たしてどちらがフィクションでどちらがノンフィクションか、とくと

  比べてみてください。太字はむかついた表現。

  (  )はふぶきのフィクションです。

 

 ザ・プリンセス雅子妃物語 

 2014年3月18日。この日は敬宮愛子内親王殿下の学習院初等科の卒業式。

   2階のご自分の部屋で 身支度をされた制服姿の愛子さま。

   1階のリビングダイニングルームから静かに流れるクラシック音楽に

   招かれるように階段から降りてこられた。

   「おはよう」テーブルクロスがかかった丸い嘱託テーブルに雅子妃が

   座っておられ、愛子さまは声をかけられた。

   雅子妃は振り返られて「あら、早いのね」

   愛子さまの緊張をほぐすように少しおどけられた。 雅子妃はセーラー服の

   愛子さまをご覧になって、あらためてそのご成長ぶりを感じられたといわれた。

   愛子さまを包み込むような笑顔で迎えられた一日の始まり。

   愛子さまは愛猫の「人間ちゃん」の頭を撫でてから洗面所で髪をうしろで束ねて

   整えられた。

 (その日の朝、東宮御所は朝からてんてこ舞いだった。いつものように

  内親王に着替えと洗面をさせる為に女官は右往左往。

  珍しく早起きをした妃は娘の支度が整わないいら立ちを回りにぶつけている。

  空は晴れ渡り、風が心地よく吹く。東宮御所の庭には春の花が咲き乱れている。

  しかし、一歩、中に入ればそこは重苦しい雰囲気が立ち込める、緊張だらけの

  空間になっているのだった。

  ようやく制服を着て髪を整えた内親王は、今日が何の日か、よくわかっていない。

  ただ全てに興味なさそうな顔をしている。

  「挨拶位出来ないの」妃が思わず、きつい口調で投げかけると、「みゃあ」と

  猫の「ニンゲン」が答える始末だった)

 皇太子殿下が二階の私室から降りてこられ、ソファーにゆったりと腰をかけられた。

   昨日のベトナム国主席歓迎行事 と国賓宮中晩餐会のお疲れも見せず、

   身支度を済ませられた愛子さまに優しく話しかけられたという。

   愛子さまは、今日で終わってしまう初等科生活を惜しまれるようだったといわれた。

   ご一家は食卓で洋食の朝食を 召し上がりながら、小学校生活の楽しい思い出を

   語り合ったそうだ。部屋には春の訪れを喜ぶような 鳥のさえずりが聞こえていた。

 (皇太子はいつものように部屋から出てきて、あくびをした。

  アルコールが欲しかったが娘の為に耐えた。

  生まれた時の感慨が少し蘇ってくる。考えてみれよくここまで育ってくれたと。

  テーブルについている妻を見て皇太子は笑った。ああ・・今日は朝からいるんだなと。

  こんな風に親子三人で食卓を囲む事を夢に見ていたのだと思う。

  外は鳥がさえずり、明るい日差しがさしている。その光がテーブルにあたり

  妻と娘の顔を浮かび上がらせた。

  幸せだ・・・と皇太子は思った)

 

 午前9時過ぎ、皇太子ご一家は東宮御所を車で出発。

  待機していた報道陣に向かって 手を振られた。

   迎賓館正門前で車を降りられ学習院の正門まで徒歩で向かわれた。

  正門にで報道陣の撮影を受けられた。その際20人ほどの報道陣の中から

   1人の記者が「おめでとうございます」と挨拶。

   愛子さまに向かって「学校は楽しかったですか」と質問すると

   愛子さまは少しはにかまれたように 「楽しかったです」と答えられた。

 (午前9時過ぎ、一家は東宮御所を車で出発。型通のお手ふり。

  「ちゃんとやってよ。いい?ちゃんとありがとうございますっていうのよ」

  妃は何度も何度も言い聞かせる。娘はただ「いい?ちゃんとありがとうと言うのよ」

  と復唱する。「ありがとうございますだけっ」妃は苛立った。

  マスコミに囲まれ、一家は笑った。とにかく弾ける笑顔と愛しそうな目が必要

  だったから。

  「おめでとうございます」と言われ、娘はごにょにょと口を動かず。母の声では

  ないからどうこたえていいかわからない。皇太子が代わりに「ありがとう」と言った。

  妃は満面の笑顔を作りながらも内心は怒りに満ち満ちていた。

  「いかがですか?」と報道陣に言われて、娘はますます萎縮し、戸惑い

  「言う?」と母に問いかける。妃は「行くわよ」とささやき返し、夫を促して

  さっさと校門をくぐった)

 午前9時半から正堂で行われた卒業式。

   皇太子ご夫妻は保護者席の最前列で式典を見守られた。「敬宮愛子さん」と

   壇上で呼ばれると、愛子さまは大きな声で「はい」と答えられ、

   卒業証書を授与されると、両手でしっかりと受け取られた。

 (東宮職は卒業式終了後にマスコミに「メモ」を渡す。内親王はきちんと

  校長から卒業証書を受け取ったと。

  でも実際に娘は講堂に入り暫くは静かにしていたものの、結果的には女官に

  そっと連れ出された。

  長くて退屈な卒業式を楽しんでいたのは皇太子ただ一人だけだった)

  

  93年6月のご成婚の日の輝くような雅子妃の笑顔は今でも鮮烈な記憶として

   残っている。

   聡明で国際的なプリンセスの登場によって 国内はもちろん、

   諸外国との関係もまた一層、深まっていくだろうという国民からの

    大きな期待があった。だがその期待は今の所はかなえられたとは いえない。そ

    れどころかこの数年は一部のマスコミ報道には虚実ないまぜになった雅子妃への

    批判があふれ、インターネットにはむき出しの 罵詈雑言が並び、

    その品性の卑しさ、醜さは目を覆いたくなるほどだった

   実のところ、そんな批判は国民の主流ではない。

   多くの国民は病に苦しむ雅子妃に温かい視線を送り、

   焦らずゆっくりご回復して欲しいと願っているはず。

 (あの日。ティアラをかぶって得意げに手を振った妃の姿は鮮烈な記憶として

  残っている。成婚の朝から土砂降りの雨。まるでそれは未来を予想していたかの

  ように。

  ハーバード大出、外務省勤務の外交官の娘という看板をひっさげて

  鳴り物入りで入内したお妃は、どれ程新しい事をやってくれるんだろうと

  国民の多くは期待していた。だが、仮面はすぐにはがれた。

  嘘に嘘を塗り固めた妃の実態はインターネットを通じて世界中に配信され

  表には出なくても水面下では着々と実感されつつある。

  今や、妃の大好きなヨーロッパですら最悪の評判になっている事。それを知らない

  のは妃だけだった。

  いや、知っていても怖くないだけだ。取り繕わなくてもマスコミは持ち上げる。

 嘘を上塗りしているのはマスコミ自身なのだから。一蓮托生・・・その罪が

 暴かれる事はないだろう)

 

 雅子妃の婚約会見の日のあの輝くような笑顔はどこへいってしまったのか。

   なぜこういうことになってしまったのだろうか。果たしてこれは悲劇なのだろうか。

 (最初からわかっていた事だった。身に合わない立場を与えられた人間が

  どのように苦労するかは。

  あの日の妃の輝くような笑顔は自分の学歴と背景に裏打ちされたものだった。

  天皇も皇后も夫も全てを見下していた彼女にとって皇室の生活は

  あまりに予想とかけ離れていた・・・・騙されたと思った)

 バッシング記事の大半はすべてを雅子妃自身の資質や生育、

    家庭環境など故人の責任に帰巣するものだったからだ。

   だが、そうとは思えない。問題のありかを 考えるためには、

   まず雅子妃の人となりに迫り、その上で皇室入りした出来事を

   追うほかはないのではないだろうか 。

 (バッシング記事の大半は事実だった。妃の資質や生育、家庭環境に

  裏打ちされた性格のゆがみが皇室に入る事によって顕著になったと

  いえるだろう。問題のありかを考える為には、まず彼女の育った環境と

  父母から受けた思想などに迫り、その上で、いかに彼女が(父によって)

  利用されて来た事を負うしかないのではないか)



  皇室入りされるまでの雅子妃の人生をたどることで浮かび上がったのは、

   雅子妃の心身の健康さとその繊細さ。

   当時を知る人「秀才であることを表に出さないタイプだった」目をひいたのは

   「前に出ることを好まなかった」といういくつもの証言。

   勉強ができ目鼻立ちははっきり。 背の高い帰国子女ともなれば自然に

   目立ってしまう。リーダーに推されてしまうこともあったが、

   学級委員や生徒会役員などに自ら手を挙げることはなかった、

 (皇室入りするまで、雅子妃の人生をたどると浮かび上がって来たのは

   生まれつき神経質で他罰的、さらに人とコミュニケーションを取る事が

  苦手・・という非常に生きづらい性格だった。

  確かにある程度まで勉強は出来たが、応用がきかないので、決して

  リーダーシップをとって何かを改革していくなどという事は考えられなかった。

  色黒で目が大きい事にコンプレックスを抱き、歯並びの悪さを指摘されたが

  誰も彼女を歯医者に連れて行こうとは言わなかったし、また彼女自身

  病院が嫌いだったのでたとえ歯医者といえども、自ら足を運ぶ事はなかった。

  高校時代、一度だけ部を立ち上げて部長になった事があったが、結局

  人間関係のトラブルで逃げ出してしまった)


  外出される際の華やかなイメージと異なり、東宮御所での暮らしは

   静寂に包まれている。時には 一日中誰とも話すことはないといわれている。

   ところが一歩外に出るとたちまちフラッシュを浴びせられ 人々に取り囲まれる。

   それでも心身共に健康で希望に満ちていた。

    しかしそのプリンセスの笑顔を曇らせたのは 何よりもお世継ぎ問題だった。

  皇室にとって、お世継ぎは重要な事であり、それは雅子妃も十分に

  理解されていたが、なかなかご懐妊されなかった。

  現在では、一般に不妊は珍しいという事ではない。高齢出産もよくきく話だ。

  だが、当時の宮内庁は、ご懐妊が難しいという事態を、全く想定していなかった。

  そして天皇皇后両陛下のご体調がすぐれない事などの焦りから

  もっとも悩み苦しんでいるであろう皇太子夫妻に対する思いやりを失っていた。

 (外出する時の明るいイメージと異なり、東宮御所の暮らしは真っ黒な

  空気に包まれている。時には、部屋に引きこもり一日中出てこない時がある。

  しかし、一歩外に出ると顔には笑みが浮かび、夫と仲好さげな態度を取る。

  マスコミにアピールする為のものだった。

  こんな裏表のある生活をしていて、心身ともに健康でいる事は不可能だ。

  このプリンセスには大きな課題があった。それは「世継ぎ問題」

  しかし、妃は子供よりも海外旅行に行きたがった。それが目的で結婚した筈だと

 言い張った。

  それでも他人の妊娠は喜べないのであった。

  結婚してすぐ秋篠宮家の紀子妃が妊娠すると、「傷ついた」と壮大に泣き叫び

  雑誌には「宮妃のくせに遠慮がない」とバッシング記事を書かせ、結果的に

  産児制限をかけた。

 宮内庁は皇太子に「世継ぎ」の重要性を説き、それこそが皇室の役割であると

 説明したが、皇太子は理解できなかった。

 外交をさせると言って結婚した以上、妻の望みを叶えないわけにはいかなかった

  のである。

 一向に懐妊に向けて行動しない皇太子夫妻に両陛下は悩まれ、5年目に

 「みんなが待っているからね」と説得を試みるも「そんな事をいう人は私の

 回りにはいません」と妃は怒り、嫁と舅の間には大きな溝が出来てしまった。

 何も出来ない宮内庁はただただ焦るばかりだった)

 ご懐妊をせかすばかりか、ついに雅子妃を非難し始めたのだ。

   曰く「妃殿下としての自覚がない」「外国に行きたがってばかりで

   子供を作りたがらない」という事実に基づかない見方を広めたのである。

   そして、ご懐妊に向けて環境を整えるとしながら 国内での静養を増やして

  海外訪問を制限した。

 (さすがの宮内庁内部でも皇太子妃の思想や行動には疑問が生まれた。

 「妃殿下としての自覚がない」「外国に行きたがってばかりで子供を作り

  たがらない」という苦言が駆け巡り、勇気ある学友や側近が皇太子に進言

  するも彼らはあっさりと遠ざけられ、いつの間にか周りにはイエスマンしか

  残らなくなったのである。

  それでも宮内庁は必死に国内の静養期間を延ばし、海外訪問を制限して

 自然に懐妊する様にしむけたつもりだったが、その事はかえって皇太子夫妻の

 恨みを買うハメになっただけだった)

 まだ若かった皇太子ご夫妻にしてみれば、懐妊、体に関する事は

重大なプライバシーでもあり、必ずしも積極的な情報発信をしない面もあった。

内庁幹部らによるご夫妻への誤った見方は是正される事無く、そのまま

両陛下に報告された。

宮内庁はご夫妻を説得しているという正当性を維持する為に不満を口にし、

その後のバッシングの根底を形作っていった。

 (結婚した時、すでに30だった雅子妃にとって懐妊を急ぐ事は、一般的に

 みても当然の事だった、ましてや皇室においては最重要事項だった。

しかし。夫妻は「プライバシー」の問題だと硬くなに言い張り、進言を聞き入れず

努力しなかった。

特に雅子妃の皇太子への嫌悪感は異常とも見えるもので、宮内庁は仕方なく

その事を両陛下へ報告した。

「本当は結婚なんかしたくなかったのに無理に嫁がされ、結果的に出産を

教養された」という雅子妃の言い訳の他罰思想はここが根底なのである)

 

 お世継ぎ問題に悩み抜かれた雅子妃。稽留流産というお悲しみを乗り越えられ、

  待望の愛子内親王がご誕生されたときは会見で涙ぐまれた。

   皇太子が雅子妃を気遣われる様子にはお二人の言葉にできない苦しい 歩みが

   感じ取られたものだった。

   だが、愛子さまが内親王であったことでお世継ぎ問題が根本的には解決されない

   まま、 場当たり的に公務が増やされていく。

 (やむに止まれず不妊治療を受け入れた皇太子夫妻だったが、雅子妃は

 妊娠の兆候を隠してベルギーへ行った。結果的に繋留流産になった。

 これは誰の責任でもない。仕方のない事だった。

  しかし、皇太子夫妻は「マスコミのスクープが原因」と決めつけて責めた。

  自分の妊娠を知りながら寒いベルギーでワインを飲み、長距離をかけて

  レストランへ行った事は棚に上げての告発だった。

 ベルギー王室は責任を感じて直々に皇后に電話を入れる程だった。

 二度目の妊娠時、皇太子は全ての健診に同行。本人的には「いい夫婦」を演じて

いるつもりだったが国民側から見ると、おかしな夫婦だった。

本当は親王が生まれる予定だったが、予想外の内親王誕生に雅子妃の両親は

失望を隠さなかった。出産を言い訳に公務をさぼっていた雅子妃だったが

ついに復帰させらた時は「育児休暇を」と宮内庁に言い出した)

 

 

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