夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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真摯に、ときには楽しく投稿

つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑫

2010-05-06 20:36:39 | 定年後の思い
     第11章 佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』、読みはじめ・・♪

私は一昨年の2008年11月22日に於いて、
このサイトに投稿したが、歴史はもとより光と影につつまれているが、
特に影となっている敗戦後の沖縄の実態を読了後、数多く学んだひとりである。

ここに紹介のような形になっているのは、
特に私を含めて、一部の人が知らないと思われ、あえて著作者の佐野眞一氏の言葉にすがった。

【・・
遅ればせながら佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を本屋で見かけ、
購入したひとりである。

著作者の佐野眞一氏に関しては、ここ数年、数多くの作品を拝読しながら、
作品の内容を深める執念のような取材力、構成力、
何より誰しも難題と思われる日本の光と影を帯びた問題に挑む力量に圧倒され、
愛読しているひとりである。

http://books.shueisha.co.jp/tameshiyomi/978-4-7976-7185-8.html

私は午後から、今回の作品を読みはじめている。
作品の主旨、概要は、著作者自身がネット上で明示されているので、
無断であるが転載させて頂く・・。

《・・

はじめに


戦後日本のありのままの姿を見ようとするとき、
私の視野にはいつも二つの国土がせりあがってくる。
一つは満州、一つは沖縄である。

世界史的にも類を見ない日本の高度経済成長とは、
失われた満州を国内に取り戻す壮大な実験ではなかったか。

私は長年抱いてきたそうした見方に基づいて、
満州を舞台とした作品を発表してきた。
その第一弾が、○五年夏に出版した『阿片王 満州の夜と霧』であり、
第二弾が、沖縄取材が終わった○八年五月に出版した『甘粕正彦 乱心の曠野』(いずれも新潮社)である。

戦後高度経済成長のシンボルである夢の超特急も、
合理的な集合住宅も、アジア初の水洗トイレも、すべて満州で実験済みだった。

日本は敗戦からわずか十年足らずで高度経済成長の足がかりをつかんだ。
それは、わが国がいち早くアメリカの核の傘の下に入って、
軍事防衛問題をほとんどアメリカという世界の警察国家にまかせっぱなしにし、
経済分野に一意専心することができたからにほかならない。

その反対給付の人身御供としてアメリカに差し出されたのが、沖縄だった。
沖縄は世界第二位の経済大国になる道を駆け上がった本土の繁栄をよそに、
東シナ海に浮かぶ日本最貧の島としての運命をたどることになった。

満州も沖縄も“還暦”を過ぎた戦後日本を検証する上で、
絶対に避けて通ることができない大きな宿題となっている。

日本の戦後社会を透視するため、満州という「時間軸」と、
沖縄という「空間軸」を立てる。
そしてその二つの軸がクロスしたところに結ばれた像こそ、
われわれがいま暮らす日本列島の掛け値なしの姿ではないか。
この仮説に、私はかなり前からとらわれていた。

満州を舞台にして暗躍し、“阿片王”と呼ばれた里見甫と、
“満州の夜の帝王”という異名をほしいままにした甘粕正彦。
日本近現代史上最も謎めいた二人の男の物語をとりあえず書き終えた私の目は、
自ずともう一つの仮説の立脚点の沖縄に向かった。


沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。
だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取られた“大文字”言葉で書かれており、
目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。

沖縄本を覆う違和感とは何か。
大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」
「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。

渡嘉敷島の集団自決問題の論争で、
大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。

だが、大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、
そうした中で自分だけは疚しさをもつ善良な日本人だと宣言し、
ひとり悦に入っている、という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。

沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。
そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、
この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、
それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。

大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、
心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、
私は幾度となく遭遇した。


こうした跪拝意識に“大文字言葉”が加わって、沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、
といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、
うんざりするほど生産されることになった。

“大文字言葉”とは何か。
いい機会なので、ここで私がよく便う[大文字」と「小文字」の違いについて、
少し噛み砕いて述べておこう。
「So what?」という英語の慣用句がある。
私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。
私が言う[大文字」言葉とは、聞いたときにはわかったような気にさせるが、
あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。

テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、
だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。
私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび
「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」
という俗謡を思い出してにが笑いする。

彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。
何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、
こちらが情報を補ってやっているからである。

これに対して「小文字」とは、
活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。
それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。

物事を「説くにには「大文字」言葉が便利だが、
物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。
「語って説かず」。
それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。

私は里見甫を書くときも、甘粕正彦を書くときも、
[大文字」の“満州論”にはせず、彼らの魅力と魔力を、
どんな読者の胸にもまっすぐ届く「小文字」で書いてきた。

私は沖縄の知られざる戦後史を扱った本書でも、
読者がこれまで聞いたことも見たこともない「小文字」の物語だけを、
型通りの主人公を食う魅力的なバイプレイヤーたちを数多く登場させて書いていくつもりである。


本書は五つのジャンルから構成されている。

Iの「天皇・米軍・沖縄県警」では、
沖縄に対する私の立ち位置をあらためて明確にするとともに、
これまでの仕事を通じた沖縄と私の歴史的関わりや、
天皇と沖縄の微妙な関係、そして沖縄県警がたどった数奇な運命にふれた。

米軍問題も、基地問題一般を語るのではなく、
歴史に埋もれてしまった知られざる怪事件や、
この島に暗躍する米軍がらみのスパイたちの活動を通して描いた。


Ⅱの「沖縄アンダーグラウンド」では、
戦後沖縄ヤクザの発生から始まって現在の勢力図にいたる暴力団の消長のプロセスをあまさず描いた。

ここでは、現役のヤクザにインタビューするとともに、
苛烈な暴力団抗争の過程でヒットマンとなった男の痛切な告白もそのまま書きとめた。
このロングインタビューは沖縄そのものの身を切るような独白となっているので、
じっくり味わいながら読んでほしい。

また、これまでほとんど知られていなかった奄美大島の差別の歴史と、
そこからたくましく起ちあがった男が惚れる奄美のヤクザについても筆を割いた。


Ⅲの「沖縄の怪人・猛女・パワーエリート」では、
“沖縄の四天王”といわれる財界人たちにスポットライトをあてるとともに、
沖縄の戦後史に残る不撓不屈の政治家や、
左翼の枠組みにはおさまらない魅力的な組合活動家、
沖縄独立の夢に賭けた男たちにも言及した。

さらに、これまでまったく書かれてこなかった封印された沖縄の戦後メディア史や、
米留組といわれるアメリカ帰りのパワーエリート、
沖縄を実質的に支配する軍用地主、女傑といわれる女たちの群像をスケッチする一方、
○六年十一月に行われた沖縄知事選の舞台裏や、沖縄の知られざる金融事情についてもふれた。


Ⅳの[踊る琉球・歌う沖縄」では、
大阪でリバイバルした琉球民謡の復活から始まって、
ベトナム戦争下のコザで花開いた本格的ロックの発展まで、
沖縄の戦後史に重ね合わせながら、
この島を走破する形で沖縄芸能の全貌をルポした。
また、ここでは沖縄の芸能を支配しようとする本土の芸能プロダクションの動きも追った。


Vの「今日の沖縄・明日の沖縄」では、
米海兵隊のグアム移転にまつわる防衛省スキャンダルや、
また繰り返された米兵による少女暴行事件、
本土復帰に関わる沖縄密約問題などにからめながら、
沖縄が現在かかえる問題と将来の問題を総合的に展望した。


・・》

以上、ネットで掲載されていた。
注)著作者の原文をあえて改行を多くした。


私は昼過ぎに、本書でこの原文【はじめに】を拝読したのであるが、
少なくとも日本の敗戦後の政治、社会までに関心のあるお方、
このサイトで日本の政治、外交、軍事などを綴られる方たちは、
必読書のひとつかしら、と齢を重ね、政治に疎(うと)い私さえ、確信しはじめている・・。


                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑪

2010-05-06 20:02:30 | 定年後の思い
       第10章 沖縄本島滞在記【2007.10.29.~ 11.6.】 

家内の母が、『ひめゆりの塔』を死ぬ前に一度は観たい、
念願に基づいて、私達夫婦との三人の旅路で、
高齢者に見合った日程の沖縄本島を8泊9日間で周遊した紀行である。

   特別第1章  機中、ひとり涙をながせば

10月29日(月)
羽田空港を20分ばかり遅れて、那覇行きの航空便は離陸した。

私は2時間半ばかりの機中の時間は、煙草も喫えず、退屈きわまりない時であったので、
過日知った『ずゐせん学徒隊』のことを思い浮かべてた・・。

そして、このことを私は別ブログに綴って投稿し、
この私の掲示板に、沖縄の男性より、
『友の碑~白梅学徒の沖縄戦~』のサイトを教示して下さり、
私は初めてこのことも知り、感銘を受けた後、資料として印刷した。

この資料を今回の旅に持参し、機中で再読した。

http://www11.ocn.ne.jp/~cr21/tomo/friends.html

改めて、監督のメッセージ、企画制作意図を精読し、あの時代に思い馳せると、
心は高まり、そして瞼(まぶた)が熱く、やがて涙があふれてきた・・。

航空便の機長より、着陸のアナンサーがあり、機は下降し、雲の中を通り過ぎると、
眩(まぶ)しい陽射しの中、那覇空港が観えた。


   特別第2章  琉球文化の一端として

那覇市のビジネスホテル風の『アパホテル』にチェックイン後、玉陵、首里城を観て廻った。

私達夫婦は15年前に来ていたので、
歴史館、陸墓は彼方の時代の時の再現を確認する為であり、
沖縄の明治以前の歴史を書物で学んできたが、王朝の興亡には私は余り興味がなく、
ただ中国、朝鮮、薩摩との交流は、改めて考えたりしいた。

琉球の置かれた状況をそれぞれの時代には、
どのような形態であったのかしら、と思いを馳せたりした。

牧志市場で魚介類を1階で買い求め、
2階が食堂風で食べさせてくれる所で、ヤシ蟹(カニ)とイカサミ等の周辺で獲れるのを賞味した。

家内たちは色々と賞味していたが、
私はオリオンビールを呑みながら、ヤシ蟹の味噌を味わえば、充分である。


   特別第3章  クファデーサーの樹の下で

『ひめゆりの塔』を行く前に、『ずゐせんの塔』に花をささげたいと、
私は家内たちに云った・・。

家内たちには、ずゐせん学徒隊に関しては、旅行の合間に話していたのである。

『ずゐせんの塔』は、午前の陽射しを受け、さわやかな風が吹いていた。

私達は花をささげて、両手を合わした後、しばらく黙祷をした・・。

この後、『ひめゆりの塔』の資料館を見いていたが、
私は早めに出て、庭園を散策し、庭の手入れをされている年配の男性に、
『クファデーサー・・樹・・
この庭園に有りましたなら・・教えて下さいますか・・』
と尋ねた・・。

男性の庭の周辺を歩きながら、
大きな樹木で空まで伸ばすかのように枝葉を広げた大木を指して、
『この樹が・・クファデーサーですよ・・』
と私に云った。

古来から沖縄に於いては、墓地の付近に植えて、さんさんと照り続ける中、
大きなクファデーサーは周囲に日陰をつくりだすので、長年人々にいとしまれている樹である。

かの沖縄戦で民衆、少年少女、そして幼児まで巻き込まれた悲惨な地上戦を思い馳せながら、
私はクファデーサーの樹の下で煙草を喫ったりした。

このクファデーサーに関しては、
両陛下が終戦50年の慰霊の旅として沖縄に訪れた折、
『平和の礎(いしじ)』をご覧になった後、
皇后陛下は平成七年にひとつの歌を詠まれた・・。

   クファデーサーの苗木添ひ立つ
           幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
                                作者・皇后陛下

この一句に導かれて、この樹木を知り、私なりに沖縄戦の過酷な戦場と思いを重ねた。

この後、『平和の礎』のある『平和祈念公園』に、私たち三人は行った。


     特別第4章  風光明媚なリゾート地

10月31日
那覇の快晴の中、タクシーで名護を目指して北上した・・。

周辺の情景を眺めていると、
東京の田舎者としては、沖縄の住民の方達には申し訳ないが、過酷な沖縄戦を忘れさせるかのような心持となった。

かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテルに到着した。
『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』であるが、
家内が中部観光には何かと利便性があり、大浴場もあり、6連泊滞在には最適と決めたホテルであった。

この後、『ブセナ海中公園』に行き、
空は青く、明るい陽射し、そしてさわやかな風を身体で受けると、
沖縄の風光明媚を心身感じ、リゾート気分を満喫できた。

遅い昼食を名護市の近くの『名護曲レストラン』で頂いたが、
素朴な沖縄料理を私達三人は、オリオンビールを呑みながら、色々と食べ比べをしたりした。

店内からは沖縄の名曲が流れていた・・。


   特別第5章 『あなたに』・・♪

店内に沖縄の名曲が流れ、私はひとつの歌に耳をかたむけた・・。

♪人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました
 あなた疑う心恥じて 信じましょう心から

【『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu】

沖縄地方出身のグループの【モンゴル800】の歌のひとつである。

私は沖縄の歌に関しては、『さとうきび畑』を最初に知り、
『芭蕉布』、『花』、『涙そうそう』を聴いている程度である。

モンゴル800の方達は、一ヶ月前頃に偶然テレビで、
沖縄列島の島々でコンサートしながら、南下する二時間のライブ版を観た。

私は齢を重ねた63歳の身であるので、好感できる若者である程度しか、
さほど印象には残らなかったが、
この名護の付近の素朴なレストランで聴いた時、少しふるえ、そしてなごみを感じながら、魅了された・・。


♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
 揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない

【『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu】


私はこの時以降、リゾート・ホテルの部屋のベランダで海を見つめながら、
或いは散策をしている時、鼻歌を唄ったり、心の中で唄ったりしている。


   特別第6章  『島らっきょう』は、美味のひとつ

家内が名護のお土産屋さんで購入したひとつに『島らっきょう』がある。
塩で浅漬けをしたもので、醤油が添付されていた。

エシャロットを細めにしたような形で、かじると歯ごたえがあり、口いっぱいに香りが広がる。
溜り醤油に付けても美味しいが、私は何も付けず、そのまま頂いた方が素朴な特有の香りがあり好きである。

私は北海道に訪れた時は、『行者にんにく』を頂き、
サッポロのクラシック・ビールを呑みながら誉(ほ)めている。

自宅の東京の郊外にいる日常は、
純米酒の辛口で、エシャロットに味噌を付けながら、賞味している。

今回の沖縄に滞在している時は、
泡盛の呑めない私として、せめてオリオン・ビールを呑みながら、
島らっきょうをたびたび頂こうとしている。

ウィスキー、ビールの友としては、最良のつけだし品かしら、と私は微笑んでいる。


   特別第7章  『美ら海(ちゅらうみ)桔梗(ききょう)』に魅了され

11月3日
私達3人は、『海洋博公園』に行き、
家内達は『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。

私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉が好きである上、
植物を愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。

国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、
私の目を楽しませてくれた。

遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。

空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。

このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。

植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。

私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。
いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。

私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と名付けた。

園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・ベンガル・ヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。

今回、本島を8泊9日で旅をしている身であるが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。


     特別第8章  旅先で投稿するには

私はこのサイトで、10月31日~11月4日に於いて、
第1章から第7章まで投稿した場所は、りゾート・ホテルの一角からであった。

http://www.kariyushi.co.jp/beach/
☆ 沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ  ☆

昨夜、沖縄本島から帰宅し、今こうして自宅で綴っているが、
滞在先のホテルのインフォーメション・センターと称された観光遊覧の相談所で投稿していた。

この相談所は20代の女性が3人いて、常時2名で対応している。
机上にはパソコン等があり、ある程度はお客様の相談事を笑顔で応じている。

このルームは15坪前後の広さがあり、
壁際にインターネットが対応されたパソコンが2台あった。
お客様自身が観光先などを検索されるのに設置されていると思われる。

私はこの中で1台を使わして貰い、ホテル内の滞在客の多い中、ときおり投稿したのであった。

この相談所の女性たちと、私は良くお話をした・・。

こぼれ話のひとつとしては、
モンゴル800の『あなたに』のことで、
『・・モンパチの『あなたに』に魅了され・・ベランダで鼻歌を唄ったり・・していますよ』
と私は云ったりしていた。

『好い歌ですよね・・私が中学3年の時・・大ヒットし・・私も大好きな歌のひとつです・・』
と微笑みながら答えてくれたりしていた。

私は齢を重ねた63歳のお客の身であるので、、
相手のお方は私よりは40歳以上確実にお若い20代の沖縄美人は、さりげなく応じてくれる。

この後、私は沖縄出身のモンパチの件で、お互いに微笑みながら話し合ったりしていた。

http://www.youtube.com/watch?v=G2mRUU8WI8w
☆【『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲・モンゴル800】☆


   特別第9章  乙女たちのエメラルド・ビーチ

『海洋博公園』で私が散策した樹木、草花園のもう一方の反対側には、エメラルド・ビーチがある。

白いペンキの大きな休憩所が二つほど並びあり、
その先端には憩いの浜、眺めの浜、そして遊びの浜と称された浜は、
白い砂浜が拡がり、椰子(やし)の樹木、空の青さ、海は蒼く、彼方の海上は解けてしまうような光景である。

こうした中で、波が白い砂浜に押し寄せ、
数多くの白いサンデッキが並び、そして色鮮やかなパラソルがある・・。


今回の旅の初め頃から、首里の王陵、首里城、南部のひめゆりの塔、平和祈念公園、玉泉洞を私達3人は観て廻ったが、
幾つかの高校の修学旅行の生徒と出会ったりした。

タクシーのドライバーの方から教えて頂いた話であるが、
生徒たちの3、4人でタクシーで好きな場所を周遊するのが昨今の傾向となっている、とのこと。
事前に先生の了解を得て、各観光の周遊プランをタクシー・ドライバーと再調整しながら、
あちらこちらに観たりしているのが多い、と教えてくれた。


エメラルド・ビーチを私は散策していると、
高校生の女学生の4人は歓声をあげて、お互いに携帯電話で写真を撮ったりしていた・・。

『よかったら・・小父さん・・みんなの記念写真・・撮ってあげるよ・・』
と私は女学生のひとりに大声で云った・・。

ひとりの女学生が、もじもじと家内と同様の写ルンを取り出して、
『嬉しい・・小父さん・・お願い・・』
と私に簡易カメラを手渡した。

4人の女学生は、それぞれのポーズを取りながら、右手はVサインであり、
私は微苦笑しながら、シャッターを押した・・。

『小父さん・・有難うございました・・』
と2人の女学生が大声で云われ、私は照れた。

その後、4人の女学生は波打ち際に歩き出して行き、微風の吹く中、スカートの裾が揺れていた。

私は南国の白い砂浜と陽射しのまぶしさ、そして海の蒼さの光景は、
乙女たちの夢のひとつ、あこがれが、目の前に拡がっていることを了解できた。


    特別第10章  夕陽を眺める時は、バーボン・ウィスキー

リゾート・ホテルのベランダで簡素なテーブル、椅子があり、
6連泊の早朝、昼過ぎ、夜のひととき、深夜に海を眺めたりしていた。

雨の日もあれば、どんよりとした曇り、風の強い日もあり、或いは快晴に恵まれた日もあった。

日常生活の私は、日本酒の山形県の純米酒を呑み、ときにはビールを呑んでいる。

今回の沖縄本島の8泊9日は、
地酒の泡盛が呑めない私は、オリオン・ビールに徹し、夕陽の時にはバーボン・ウィスキーと秘かに希望していた。

那覇市内に於いては、泡盛ばかり目立つが、
肝心のバーボンは宿泊先の最寄のコンビニで小瓶の200mlを見つけ、
その横に大手の日本酒の辛口もあり、この二品を購入した。

リゾート・ホテルに於いては、
館内のコンビニでオリオン・ビールの350mlの6セットを何度も購入し、
ときには大手の味に欠ける日本酒を呑んだりしていた。

外出、館内の食事処の場合は、やはりオリオン・ビールとしていた。


5日目の時は、風もなく陽差し弱まりかけたベランダで、
海上の夕陽を眺めながら、私はバーボン・ウィスキーの小瓶の封を切った。

グラスに氷を五つばかり入れ、バーボンをそそぐだけのオンザ・ロックである。

私は南国のサンセットの情景には、バーボンのオンザ・ロックが相応しいと、
ここ20年ばかり夢をみていたのである。

濃厚な香り、むせかえる喉越しのバーボンを呑み、煙草を喫いながら、夕陽を眺めたりした。

至福のひととき、私は鼻歌を唄ったりした・・。


♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
 揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない

【 モンゴル800の『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu 】


私は3杯ほど呑むと陶然とし、
沖縄の復帰後の激動、リゾート観光地への変貌期の住民の労苦に思いを重ね、
胸が熱くなり、4杯目を注(つ)いだ・・。


   特別第11章 『またん めんそ~れ・・』

私達夫婦は、15年前頃に沖縄列島を観光周遊をした。
私が現役時代であったので、4泊5日でジャル・ツアーズの旅行会社を利用し、
JAL直営のホテルに宿泊した。

石垣島に連泊し、西表島の周辺の島々を周遊し、
本島に来て、恩納村のリゾート・ホテルに宿泊し中北部の観光を楽しみ、
首里のシティ・ホテルに宿泊した後、南部観光をしたりした。
観光周遊の移動としては、JALライナーのバスでホテルからホテルの間を観光周遊、オプションをまじえて、周遊した。


定年退職後の4年生の今は、
家内の母が『ひめゆりの塔を観てみたいわ・・』と、
娘の家内に話したことから、私達夫婦は高齢者の為のプランを設定した。

那覇のビジネス・ホテル『アパホテル那覇』に連泊し、南部観光をめぐり、
恩納村のリゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン・スパ』に6連泊して、中北部の観光を周遊した。
今回は家内が殆ど選定し、東急の旅行会社を通して、予約した。

移動の交通は、初日に『ゆいレール』を那覇から首里に一度ばかり利用し、
最終日のリゾート・ホテルの各所から那覇空港へのリムジン・バス以外は、タクシーで移動した。

食事に関しては、朝食はホテルのバイキングの和・洋食を頂き、
昼食は出先の観光地で簡素なおにぎりなどを中心に、
夕食は日常住民の方たちが利用されている沖縄料理の食事処、居酒屋に、
滞在先から15キロ以内の処にタクシーで往復した。

私達3人は、それぞれ美味しそうと思われる料理を賞味し、
お互いに分け合って、夜のひとときを甘受した。

地魚の平アジの煮付け、地魚の刺身の盛り合わせ、刺身のニンニク刻み、
豚の豚足、耳の刻み、島ラッキョウ、ダイコンのわさび漬け、ヘチマ煮、
ヤシ蟹、マングローブ蟹(ガザミ)などが、私としては沖縄らしい味として賞味した。

最後の宿泊の夜には、ホテル館内の『かりゆし料理』に頂いたが、
上質でどなたでも賞味できる和食コースであった。

そして、家内達はトロピカル・カクテルのような
泡盛をベースに南国のフルーツ入りのカクテルを呑んだりしていた。
私はオリオン・ビールを呑みながら、
家内達に『またん めんそ~れ・・』
と笑いながら、云った・・。

家内と家内の母は小首を傾げたので、
『俺も観光先で見かけたのであるが・・
See you agan・・とペンキで書かれた看板があったよ・・
この中で、youというのが、ouになっているの・・おかしいなぁ、と思っていたら《y》が欠けていたの・・

いずれにしても、
ふたたび・・沖縄でお逢いしたいですね・・という意味だよね・・
こちらの沖縄の言葉だと・・またん めんそ~れ・・』
と説明したら、家内達は笑いころげたりした。


     特別最終章  昭和の初期に生を受けた人々は

家内の母は、昭和5年生まれで、3年前に死去した家内の父は昭和2年生まれである。

家内の父は、大学を繰り上げ卒業で召集され、
初年兵として仙台の郊外、浜松の郊外で軍事訓練に明け暮れ、
古参兵の洗礼を受けている中、敗戦時を向えた・・。

家内の母は、新潟県の高田の女学校の時代に、軍事工場の支援に強制従事させられた身である。

家内の母は、今回の沖縄の旅として、
特にひめゆりの塔、そして平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、という要望であった。


那覇に着いた翌朝、朝8時過ぎにタクシーで『ひめゆりの塔』を目指して、
最初は私の熱い思いの『ずゐせんの塔』に花をささげ、しばらく黙祷をした。

この後、徒歩5分の『ひめゆりの塔』に行き、
『ひめゆり平和祈念資料館』の中で私は別れ、独りで早めに庭に出て、
クファデーサーの樹木を探したり、
資料館の中で厚い一冊の本を買い求めたのをベンチで読んだりしていた。

1時間半前後して、家内達がベンチに座っている私の所に来た・・。
家内の母は、
『XXさん・・ご免なさい・・遅くなってしまって・・
ひめゆり学徒の方たち・・私と同じぐらい齢なの・・』
と私に云った。

私は家内の母の顔を見ると、目に涙を浮かべていた・・。


この後、タクシーで『平和祈念公園』に移動し、
私達3人は、無名者の墓地、新潟県の墓地に花をささげ、黙祷をした。

私は敗戦の一年前に生を受けた身で、戦争を知らないひとりである。
あくまで、親族から教えて貰ったり、教科書、歴史書、小説、随筆などの書物、
そして映画などで観る限りである。

つたない身の私は、戦時で亡くなわれた数多くの墓石、
平和の礎に無数の刻まれた戦死者名を見ると、言葉を失い、呆然と戦争の残酷さを痛感させられた。


昭和の初期に生を受けた人々は、余りにも若くして、戦いのさなかで亡くなわれた人、
特攻隊で散った人、戦地に向かう折、米軍の攻撃で亡くなった方、
或いは沖縄の地上戦で戦死された方・・原爆、空襲で亡くなった住民の方、
それぞれの立場の人々が、戦争という旗の下で、命を落とされている。

そして、日本の各地で強制支援として、軍事工場、病院などで従事させられたりした・・。


平和祈念公園を辞する時、家内の母は私にぽっりと云った。
『私も・・ひとつ早く生まれていたら・・
戦地の病院などで行かされたかも知れないし・・どうなったか・・わからないわ・・

父さんも・・よく云ってた・・俺より・・たったひとつ齢の上ひと・・
多く戦死された・・と』



                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑩

2010-05-06 18:20:19 | 定年後の思い
       第9章 『ずゐせん学徒隊』らに、ご冥福を・・。

私は2007年10月16日に於いて、『ずゐせん学徒隊』を初めて知り、
そして何とか生き残られた人の言動に圧倒され感銘にふるえながら綴った。

【・・
昨日の深夜、『文藝春秋』の読み残した記事を読みはじめた・・。

正確な題名は、主題が【美智子さまと昭和天皇】、
副題が【沖縄の悲劇を胸に】と題され、
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんが綴られた記事である。

私は沖縄に関しては、このサイト以外でも数多く綴っている上、
高校生以来、真摯な思いで関心はあるが、
皇室が係わると、何かと気後れと1日の中で、心が澄んだ時も読もうと、
あえて後回しにしていたのであった。


私はかの大戦の過酷な沖縄地上戦に於いて、
看護要員として『ひめゆり学徒隊』は知識の一端として、知っていたが、
恥ずかしながら『ずゐせん学徒隊』は全くの無知であった。

作家・梯久美子さんの記事を拝読し、
あの沖縄戦を深く理解すれば、このような状況が明確に想像できるのであるが、
つたない私は無知であった。


作家の綴られた記事を引用させて頂ければ、

《・・
沖縄戦で犠牲になった沖縄県出身者は約12万人、
うち軍人・軍属は約2万8000人で、残りの10万人近くが民間人である。

すべての中学校、高等女学校で学徒隊が編成され、
男子は鉄血勤皇隊、女子は看護隊として戦場に動員された。

男子は14歳から19歳、女子は15歳から19歳である。
そのうち、男子1559名、女子446名が戦場で亡くなっている。
・・》
注) 原文に対し、勝手ながら改行を多くした。


私が無知で、想像力が欠けていたのは、
すべての中学校、高等女学校・・
と明記された内容であった。

作者の記事のすべての中で、
『ずゐせん学徒隊』に関しては最初のほんの一部に過ぎないが、
長年の歳月の熱い心情で淡々した基調で綴られている・・。


首里高等女学校の学徒隊は『ずゐせん学徒隊』と命名されて、61名で構成され、
33名の方が亡くなわれ、ずゐせんの塔として、まつった慰霊塔である。
この中で生き残られたひとりの方の証言と念願された言動を記載されている。

作者が取材で訪れた時、
ひめゆり塔には大きな献花台からこぼれ落ちるほどの花束が供え、
数百メートルしか離れていないずゐせん塔には一輪の花もなく、
と記載されている。

『ずゐせん学徒隊』の生き残られたひとりの大正15年生まれのお方が、
「ひめゆりばかりが有名になって、
同じように戦場で亡くなったずゐせん学徒のことは、
誰も知らないし追悼もされてない。
それがずっと悲しくて、悔しくて」
と証言されて、
平成5年4月、両陛下が出席する植樹祭の会場の近くにずゐせん塔があるので、
両陛下に塔を見て頂きたく直訴した。

県知事に嘆願書を提出し、知事が不在だったので、
副知事の前で嘆願書を読み上げた・・。

『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
女性でも戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わず・・
衛生兵とともに奮闘致しました』

『生き証人は黙っている事が出来ません。
33名の代わりに声を大にして、
「ずゐせん隊はかく戦えり」
と叫びたいのであります』

この後、副知事から宮内庁を通し、陛下に伝えられた。

そして陛下のご希望に寄り、植樹祭の前に、
両陛下から、ずゐせん塔に供える花束を託され、
『・・天皇陛下が私に、
戦争の時はこのあたりにも来ましたか、
とおっしゃった。
・・
このあたりは、飛び交う弾の中をさまよい歩いたところです。
たくさんの友達が死にました・・。

陛下は、苦労なされましたね、
と言ってくださった』

そして、両陛下に自作の琉歌を披露され、
沖縄の文化に造詣が深く、みずからも琉歌をつくる天皇はご理解され、
翌日、所望された陛下に清書され届けられた。

そして、両陛下の車は、
ずゐせんの塔の前を、ほとんど停止に近い最徐行でゆっくりと進み、
お2人は窓を開けて、じっと瞑目(めいもく)された。


こうした概要であるが、
かの大戦で日本本土で沖縄諸島だけが地上の戦場となり果て、
民間人、そして学生まで巻き込まれ悲惨と過酷を思い浮かべる時、
敗戦の一年前に生を受けた私さえ、
胸は熱くなり、やがて深夜ひとり涙を流した。
・・】


                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑨

2010-05-06 17:56:37 | 定年後の思い
       第8章 私なりの『沖縄』の悲劇とは・・。

このことは2007年4月7日に於いて、このサイトに投稿していた。

【・・
私は早朝から、沖縄について思いを馳(は)せている・・。

私は東京の郊外で、敗戦の一年前の昭和19年に生を受けて、
戦争という悲惨な出来事は知らない身である。

小・中学校で沖縄に関しては、教科書などで知り、
高校時代に歴史に興味を持ち、沖縄に少し解かりかけた。

二十歳を過ぎた頃、中野好夫・新崎盛暉の両氏に寄る『沖縄問題20年』(岩波新書)を読んで、
私なりに沖縄を心の隅に置くようになった。

そして、昭和の全般史として、『ドキュメント昭和史』全8巻(平凡社)を
30歳の頃に読み、
敗戦前後の沖縄の状況を改めて教示を受けたりした。

これ以前の沖縄の歴史の概要としては、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)を精読し、理解した。

無断であるが、氏の書かれたことを借用すると、
下記のように明示されている。

《・・
先史時代の『沖縄』の文化は、
九州地方の縄文文化と深い掛かり合いを持ちながら、進展したといわれている。
しかし、縄文時代の後期あたりから、
日本と中国の文化的影響を受けながら、独自性を強めていったものと思われる。

かっての『琉球(りゅうきゅう)』という名称は、中国人の命名であり、
8世紀の日本の文献には『阿児奈波(おきなわ)』という文字で表現されているという。

ここに『琉球王国』が成立したのは、1429年(永享一年)のこと。
しかし、1609年(慶長14年)に、
徳川家康の承認を得た薩摩藩(鹿児島県)に攻略され、
王制をとりながら幕藩体制に組み込まれた。

明治政府が出来て、日本が近代国家として出発すると、
琉球王国の帰属を明確にしょうとする動きが顕著(けんちょ)となった。
しかし、琉球側に統合に反対する勢力があり、
中国(清)の異議申し立てもあって、事はうまく進展しなかった。

明治政府が軍隊と警察力を投入して、王宮・首里城の明け渡しを迫り、
『沖縄県』の設置を宣言したのは、1879年(明治12年)4月4日。

沖縄県では、この日が『沖縄県誕生の日』とされている。

中国側との問題は、日本が『日清戦争』に勝ったことで消滅した。
・・》
以上、無断で引用させて頂きました。


私が長々とこうした事例を取り上げたのは、
第二次世界大戦の中で、日本と沖縄の関係を明確にした上で、
過去の歴史によくある強国は、隣接する地域、或いは国自体を
属国化にしてきたと同様に、
いかに日本は沖縄列島地域を強奪したのかを、
未知の人達に知って欲しかったのである。


第二次世界大戦の中で、日本は各地が頻繁に空襲に遭われ、
各地で甚大な災害、死者が数多く出された・・。

とりわけ、広島と長崎は空前前後の原子爆弾という核による新兵器の投下により、
多大な被害を受けて、被災地が復旧しても、
今日まで心身共に深く痛ましい傷跡を残している。

沖縄の場合は、諸島の全般が戦地となった上で、
何より住民の方達まで戦いにまきこまれ、アメリカ軍の圧倒的な軍事力の中で、
地上は焦土と化し、虐殺まで行われ、
そして味方であり、守る立場の日本軍の一部に寄る、
住民に対しての自害の進めである。

結果として、日本の各地で戦争に寄る悲惨な出来事は数多くあったが、
あたかも日本列島の防波堤となった沖縄諸島、そして住民まで戦場と化した地上戦にまきこまれ、
戦火に散った人々の事実を知れば知るほど、
例え戦争を知らない私さえ、心の傷を今でも負っている。

そして私は、沖縄に対しては、後ろめたい心を何時も持っている。

敗戦後は、アメリカの占領下となり、軍事基地が大半となった。

その後、沖縄県自体は日本に返還されたが、
沖縄の地理的条件が、もうひとつの悲劇をもたらしている。

日本の敗戦後、アメリカとソ連の2大巨人国の冷戦、そして中共の建国・・
こうした軍事的視点だけでも、アメリカの軍備上、沖縄本島は欠かせない地理的条件となっている。

国際政治は、各国の国益に基づいて、怜悧に交渉、実施されているので、
私は平和ボケでないので、外交の破綻の時は、最悪の場合は戦争になる。
その前提条件とし、国家の安全に於いて、外交を協議する時には、
それなりの抑止力として、自国の軍備は必要と認識している。

このことは世界の歴史を顧みれば、おのずと理解できる。
平和ボケ、他力本願の人々は、他国から占領され、隣人が殺され、
やがては自分の家族が惨殺されても遅いのである。

私なりの沖縄の悲劇とは、
戦時中は沖縄諸島自体が戦場となり、住民までまきこまれ過酷な実態。
そして現在も国際政治の軍事上、必要悪であるが、
欠かせない地理的条件に位置する沖縄本島である現実である。
・・】


                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑧

2010-05-06 17:46:55 | 定年後の思い
       第7章 沖縄戦の教科書検定に恥知らずの人・・。

私は2007年3月31日に於いて、前夜のニュースで知った、
沖縄戦に伴う教科書検定に怒りを覚えて、投稿した。

【・・
昨夜、NHKのニュースを視聴している時に、
文部科学省は来春から使用される高校中学生向け教科書の検定結果を公表し、
沖縄戦の集団自決に関する記載に改定があったことを知った。

私は定年退職後の3年生の身であり、
山川草木を主軸に季節の移ろいを大切に生活しているが、
こうした私さえ憤りを覚えた・・。

【日本軍に集団自決を強制された人もいた】申請時から、
【集団自決に追い込まれた人々もいた】
と修正された。

私のつたない歴史観に於いては、
沖縄戦は日本軍が住民の方たち達に集団自決を強いた、
との認識であり、
私は敗戦の1年前に生を受けた身であるが、
少なからず沖縄の住民に対しては後ろめたさが現在まで至っている。


今回の検定の意見として、
沖縄戦の実態について誤解する恐れのある表現、
として修正された、と文科省の検定の方々は明白しているが、
私はこの方々の見識を疑う。


歴史の事実を歪曲することは、
教科書で学ばれる純粋な中、高校生はもとより、
私たち日本人の多くの人まで誤解を与える。

何より激戦となった地上戦の沖縄で、
悲惨にも住民まで戦火にまきこんだ事実をいかがされるのか、
検定に係わった諸氏の見解が私は理解できない。

歴史の事実を歪曲させるのは、
日本人に対しても、世界の人々に対しても、
恥知らずと確信している。

歴史の事実を正視した上で、心の節度があって、
初めては美しい日本の心の第一歩と思ったりしている。
・・】



                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑦

2010-05-06 17:09:31 | 定年後の思い
      第6章 沖縄戦;日系二世、敵は同級生だった・・。

私は2005年6月21日の時に、一昨日の読売新聞の特集記事が、
私の脳裏にいまだに残り、新聞記事を転記しながら、
余りにも過酷な沖縄戦いを改めて教示されたのである。

この読売新聞の特集は、『戦後60年 6.23 沖縄戦終結』であり、
この中のひとつの記事を精読したのである。

無断であるが、転記させて頂く。

《・・
降り注ぐ砲弾が『鉄の暴風』と形容された激戦は、終結の時を迎えようとしていた。
60年前の1945年6月20日、沖縄本島。

首里(那覇市)近くの芋畑に、
ぼろぼろの作業着をましった二人の男がひざまずいていた。
島の南部・摩文仁近くの壕(ごう)に立てこもっていた所を発見され、
連行されてきた日本兵だった。


米軍の特務軍曹として、日本語通訳をしていたタケジロウ・ヒガさん(82歳)は、
二人の聴取を始めた。
氏名、生年月日、出身地・・・。
彼等が、自分の小学校の同級生だと気付くまでに、時間はかからなかった。

日系二世・米国人のヒガさんは、
ハワイで生まれて間もなく、一族の故郷の沖縄に移った。
16歳まで暮らし、開戦二年前の1939年、ハワイに戻り、米軍に入隊した。

『真珠湾攻撃以降、日系人に対する風当たりは強くなるばかりだった。
多くの人が収容所に放り込まれた。
米国市民としての務めを果たしたかったから、米軍に志願した』

フィリピンを経て、沖縄に上陸したのは、1945年4月1日の朝だった。
幼い頃、泳いだ北谷に近い海岸からだったが、
記憶にある景色とは程遠かった。

砲弾が落ちた山は、茶色の地肌をむき出しにし、丸焼けの農家が点在する。
道には、死んだ家畜が転がっていた。
歩きながら、涙があふれて仕方がなかった。

『沖縄だけには、行きたくなかった。
古里の土を、銃を携えて踏む気持ちが分りますか・・。
しかも、沖縄の人々の敵として』


ヒガさんは、戸惑いながらも、思わぬ形での
旧友との再会に弾む心が抑えられなかった。
恐怖に顔をゆがませる二人。
『君達は、目の前に同級生がいるというのに、気がつかないのか』
こらえきれずに、叫んだ。

我に返ったように、二人がヒガさんの顔を見上げた。
泥だらけのほおを涙が伝っていた。

『ハワイに戻っていなければ、
彼等は、私自身の姿だったかもしれない。
あの時は、立場を超え、抱き合って大声で泣きました』

二人のその後の消息を、ヒガさんは知らない。


ミノル・テルヤさん(80歳)も、ハワイ生まれの日系二世・米国人だ。
『日本の心を学ばせたい』という沖縄生まれの祖父と共に、
10歳の時、那覇のそばに移り住んだ。
『当時の私は、二重国籍だった』

中学校の教室で、真珠湾攻撃の一報を聞き、
わきかえる級友達をよそに、ハワイの家族を気遣った。

『日本が戦争に勝ったら、ハワイに帰れる』
そう信じたから、18歳の時、日本海軍に入隊し、
滋賀海軍航空隊などを経て、横須賀の基地にあった特殊潜航艇部隊に所属した。
沖縄の戦況が、いつも気になった。

『ハワイを攻撃したのは日本人で、
沖縄を焦土させているのは米国人。
何故、二つの故郷が戦火に遭わなければならないのか。
両国の血を持つ私は、この先どうしたらいいのか』

たが、沖縄に出撃することなく、横須賀で玉音放送を聞いた。


かって、沖縄からは、多くの人が国外に新天地を求めて船出した。
沖縄の資料によると、1940年の時点で、
ハワイには約1万3000人の沖縄出身者がいた。

正反対の道を歩んだヒガさんとテルヤさん。
戦後、ハワイに戻り、ヒガさんは米財務省の所得税調査官。
テルヤさんは、物産関係の仕事に励んだ。

今、二人ともオアフ島の郊外で、静かに暮らす。
互いの面識はないが、願いは同じだ。
『愛する沖縄で、悪夢が繰り返されてはならない』


第二次大戦中、日本が唯一、住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた沖縄。
亜熱帯のリゾートとして、多くの人々が訪れる『美(ちゅ)ら島』には、
60年を経ても、なお、深い悲しみと傷跡が残る。

・・》
注)原文に大幅な改行をさせて頂きました。

以上が記事の全文である。


私は精読しながら、戦争とは、かくも残酷に人々を翻弄させる。
戦争の知らない我々の世代も目を見開き、
逃げることなく過去の歴史の真実の前に於いては認識しなければならない。

何よりに重要な事は、過去の歴史を教訓に、
今後の政治・外交・軍事・経済の諸問題に生かせなければ、
多大に亡くなった方は浮ばれない・・。

外交が破綻した時、最悪の戦争となるので、
粘り強い外交の手腕も必要不可欠である、と確信を深めているのである。




                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑥

2010-05-06 17:08:12 | 定年後の思い
        第5章 改めて、『慰霊の日』とは・・。

私は前章に於いて、『慰霊の日に寄せて・・』と綴り、
近代史上に於いて米軍による大量の虐殺であった、と私は綴った。
この事を具体的に、米軍の圧倒的な軍事力、兵力等を綴り、残酷ではあるが、
あえて覆い隠すことの出来ないことに、綴ることとしたのであった。

私の手元にある書物から、具体的に明記されているので転記する。

著作・藤野邦夫氏の書かれた『沖縄慰霊の日』~幸せ暮らしの歳時記~
引用させて頂く。

《・・
太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。

そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。

この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、
その3の1は、前記のような補充兵だった。

これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、
バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。

兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、
アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。

このアメリカ軍が、1945年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。

彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、
4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。

日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、
アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。

この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、
すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。

残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、
沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。

勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。

更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
県民達の凄惨な事件が続発した。

そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。

しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、
6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。

この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、
県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。

軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、
沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。

沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、
1951年から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。
・・》
注)原文より改行を多くさせて頂きました。

以上が全文である。


私は転記しながら、改めて再確認させられたのであり、
戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。

10数年前、私は初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・
とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私に教えてくれた。

前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土に被弾する、状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして静かな涙を流した・・。


                                  《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑤

2010-05-06 15:49:27 | 定年後の思い
          第4章 私の定年後、初めて『慰霊の日』の思いは・・。

私は民間の中小業の会社を定年退職をした2004(平成16)年の秋であるが、
この翌年の2005(平成17)年の6月20日に於いて、
【『慰霊の日』に寄せて・・。】と題して、投稿していた。


【・・
今朝の読売新聞で、6月23日の沖縄県が制定した『慰霊の日』に寄せて、
ひとつの戦記の記事があった。

無断であるが転記させて頂く。

《・・
沖縄本島の南端に近い摩文仁(糸満市)に1995年6月、
「平和の礎(いしじ)」が建立された。
沖縄戦で最後の激戦地となった場所だ。

真っ青な海を見渡す敷地には、御影石でできた116基の
「刻銘碑」に、戦没者の名前が刻まれている。
今年、新たに720人が加わり、
ここに記される戦没者の合計は、23万9801人となった。

このうち、沖縄県出身者は、約15万人。
この数字は、満州事変(1931年9月)から太平洋戦争の終戦前後までに、
県内外で戦争で亡くなった人の合計だ。

実際に沖縄戦を巡って犠牲となった県民は約10万人、
兵士などを含めた日本人犠牲者の総数は約18万8000人(県推定)とされる。

1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍の猛攻を、
日本軍の兵士だった仲本宗秀さん(80歳)は、
「夜も照明弾で真昼のように明るくなり、米兵に見つからないよう、
絶え間なく襲ってくる砲弾の中で、死んだふりをした」
と振り返る。

最南部の喜屋武岬一帯には、
1ヶ月間に680万発ものの砲弾が撃ち込まれた、という推計もある。

住民の集団自決が相次ぎ、
沖縄陸軍病院に動員された女学生ら136人が犠牲となった「ひめゆり学徒隊」の悲劇など、
筆舌に尽くしたがい惨状とが繰り広げられた。

同年6月23日、軍司令官の牛島満・陸軍中将らが摩文仁で自決。
この後も戦闘は続いたが、日本軍の組織的戦闘が終結した日として、
沖縄県は23日を慰霊の日と定めている。
・・》

以上が記事の全文である。


この沖縄戦は、米軍による圧倒的な軍事力の下で、
戦争の名目を借りた近代歴史の前例にない《大虐殺》である。

米軍としては、本土に控える日本軍への見せしめに行なった
《大虐殺》でもある。

この沖縄戦は、硫黄島、ノルマンディーと決定的に違うのは、
圧倒的な軍事力の基で、抵抗が殆んど出来ない住民が多く、
住民を巻き込み、住民を蹂躙した戦況による《大虐殺》が実情なので、
今後もアメリカ・サイドによる戦争映画としては一般大衆が観る映画化は出来ない、
と確信を深めている。

そして何よりの沖縄の悲劇は、地理的な位置にある。
太平洋のアメリカに寄る、飛び石戦略、位置。

そして、敗戦後の冷戦による、反共封じ込めの軍事上の重要な位置・・。

私は、日本の本土の犠牲となった沖縄の人々を
正常な神経を持ち続ける限り、感謝の念を忘れることは出来ないだろう。

・・】

                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ④

2010-05-06 12:54:28 | 定年後の思い
         第3章 『沖縄よみがえる戦場』、私が歴史を突きつけられる時・・。

私は2006年6月19日に於いて、前夜テレビ番組を視聴し、
このことについて投稿していた。

【・・
夕食後、何気なしにテレビを観ていたが、
NHKスペシャル『沖縄よみがえる戦場』であり、

~ 地上戦に巻き込まれた住民たち ~

~ 初めて語る過酷な体験 ~

とサブ・タイトルだった。


沖縄に住む婦人が、沖縄に米軍上陸で逃げ惑い、洞窟に避難し、
自決の覚悟をしたが、米軍の攻撃により、やも得ず投降した時、わが子を失う・・。

幼き少女が沖縄北部に逃げて、山間部に潜む日本軍の手で被弾する。
この時、多数の婦人達がいて同時に、浜辺で処刑された。

日本軍はこの避難民が米軍に通報するのではないか、
と疑惑の元で処刑された・・。

この幼き少女が今、60何歳かになり、
この時に処刑から何とか命を免れた婦人のひとりと再会をする。
(注意・この少し前に私は電話があり番組を見逃していたので、
実際は生き別れた母親に再逢できたのかも知れない)

このような概要である。

私は昭和19年9月生まれで、敗戦後の1年前に東京の郊外で生を受けた。

私は沖縄について、20歳以来、あの時の大戦で、
日本が敗戦濃厚の時、日本の防波堤になった、と確信している。
そして私は沖縄の人々に対し、すまないような、
後ろめたさを私は何時も思っている・・。

この時の大戦で、沖縄を含め、多くの日本本土の方も被害を受けている。

戦争とは、かくも残虐な殺し合いである。
時の政権を掌握する人と軍人の一部の人々が恩恵が有るが、
圧倒的に多くの国民は被害をこうむり、
どの時代でも戦争の過酷さである。

こうした重みの前に、私は言葉を失う・・。

日本人のひとりとして、
避けて通れない歴史の1ページを突きつけられたのである。
・・】


                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ③

2010-05-06 11:54:09 | 定年後の思い
          第2章 私の沖縄問題の原点は・・。

このサイトに於いて、2008年6月23日、
この一年前の2007年6月20日で、【私の沖縄問題の原点・・。】
と題して投稿したのを再掲載をしている。

【・・
今朝、私は沖縄に向かって黙祷をした、と綴ってたが、
この後は私が各ブログ系に書き散らした数々を返したりしたのである。

再掲載は少し気が引けるが、私なりの沖縄の深い思いがあるので、
つたない私なりの沖縄の思いを連載投稿する。


私の手元に、1冊の本がある。
『沖縄問題二十年』である。
この本は、中野好夫、新崎盛輝、両氏による共著であり、
岩波新書で1965年6月21日 第一刷発行と記されている。

この頃の私は、大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしていた時であった。

高校時代以来、時事に興味を抱き、
ベトナム問題と同様にまとわりのない問題に思考が整理できず、
深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。

この本のまえがきに書かれている、

《・・
なぜ私達がこんな本を書いたかという動機については、
私達本土の日本人は、戦後、そして現在、
沖縄が置かれている実情について、
もっとよく身近に知らなければならない、

そしてまた、我々自身の問題として考えなければならない、
いわば義務をもっていると信じるからである。
一種の道徳的責任といってもいいと思う。

こうした言い方をすることを、
最近はなにか感傷的偽善といった風に考える風潮も出ているように見えるが、
少なくとも沖縄に関する限り、私達はそうは考えない。

沖縄同胞の祖国復帰運動を語る本土日本人の声の中に、
それは「母なる本土」への復帰をねがう悲願、
「母鶏の翼の下を求める雛鶏」の願い、
というような表現を見かけることがある。

事実、沖縄返還の運動に精力を傾けている人達の中にあってさえ、である。
善意を理解するにはやぶさかでないし、
また美辞麗句としてならともかくだが、
もし少しでも客観的に、冷厳に、
本土と沖縄との過去の歴史を顧みるならば、
どんな意味でもこんな感傷的な言葉は出ないはずである。

ここで、藩制時代の島津藩が行なった経済的収奪、
更に明治期に入っての沖縄に対する差別的処遇、等々の
そういった古い歴史まで遡のぼろうとは思わない。

だが、最近、太平洋戦争末期の沖縄戦、
そしてそれ以降、サンフランシスコ条約に至る経過だけを考えて見ても、
果して私達「本土」は、沖縄に対して「母なる本土」であったろうか。


戦後日本の「奇蹟的」復興とやらにつけても、
私達は、爆撃の災禍はさておき、
とにかく本土が戦場にならなくてすんだ幸福を、
今更のように思う。

だが、それにひきかえ沖縄はどうであったか。
わずか3ヶ月の戦闘に20万近い犠牲者を生んだ沖縄戦、
しかもその半ば近くが実に非戦闘員の県民であった。
意図的にそうしたとまではいわないが、
少なくとも結果的に見れば、ある意味で私達は、
沖縄同胞の犠牲の上において、
本土戦場の不幸は免れたともいえるのではないか。


そして最後には、サンフランシスコ条約の第三条である。
沖縄同胞は、しばしば「売り渡された」という言い方をする。
県民の意志は何ひとつ問われることなく、きずいた時には、
祖国から引きちぎられ、不沈の軍事基地という運命を
背負わされていたというのである。

もし「母なる本土」であるとすれば、重ね重ね、
随分ひどい仕打ちを繰り返した母親といわなければならぬ。


正直に言うが、少なくとも私達は、
戦後の沖縄県民の間から、祖国復帰の運動が起きる等とは、予想しなかった。

歴史的な収奪、差別的処遇があった上、
更に最後に沖縄戦という犠牲を強いられた人々が、
もはや祖国に愛想をつかして、日本から離脱を考えたところで、
私達としては、到底一言もなかったからである。

だが、事実はその後まもなく強い祖国復帰への動きが、
脈々として盛り上りつつあることを知らされて、正直にいって驚いた。

これは絶対に応えなければならない義務と責任があることを直感した。
沖縄出身でもなければ、沖縄の土を踏んだこともない
《もっと正確にいえば、踏むことを許されない》私が、
柄にもなく沖縄に関心を持ち出したきっかけである。

     (略)
・・》
以上、著作者の中野好夫氏が綴っている。

注)原文より、私は勝手ながら改行を多くさせて頂きました。


私は21歳の感受性が豊かであったので、
年長者の暖かいアドバイスを頂いたようになった。
この言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、
基軸となったのである。

それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている現在、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
この後30年後の50代に初めに沖縄諸島の土を踏み、
更に思いを深めたりした・・。


                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ②

2010-05-06 11:28:13 | 定年後の思い
       第1章 私はこの日は『沖縄』に向かい、黙祷をして・・。

私はこのサイトに於いて、一昨年の2008年6月23日に於いて、
【 私は沖縄に向かって、黙祷を終えて・・。 】
と題して、投稿をしていた。

【・・
今朝、私は洗面を終えた後、沖縄に向かって、黙祷をした・・。

私は齢を重ねた63歳の身であり、
かの大戦の敗戦直後の1年前に東京郊外で生を受けた身であるが、
特に沖縄諸島に対する思いは深いのである。

昨年のこの日には、
『私は沖縄に向かって、黙祷・・。』と題して投稿している。


・・(略)

私は毎年、本日の朝は沖縄に向って、黙祷をしている。

太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、
沖縄戦は事実上集結した日である。
沖縄県は『慰霊の日』として、この日は戦没者追悼式が行われている。

私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた身で、
沖縄に関して無知な方であるが、
かの戦争で日本の防波堤となり、一般人まで戦禍にまみれ、尊い犠牲の上で、
今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思っているのである。

広島、長崎、そして各地で空襲などで亡くなった方は多いが、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、一般の人々が戦禍の中で虐殺される事実に於いて、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
沖縄に向って、黙祷をしている。

尚、敗戦後の日本の平和は、国際の各国の怜悧な国益に基づいて、
悪夢であるが核抑止を背景とした軍事力を根底とした政治・外交・経済で、
何んとか今日を迎えていると思考している。
・・】


私は昨年の『沖縄慰霊の日』の後、
私達夫婦は家内と母と10月下旬より沖縄本島を8泊9日で訪れ、
更に思いは深めている。



                                  《つづく》



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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ①

2010-05-06 09:47:57 | 定年後の思い
            序章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳であり、
過ぎし一週間は、『普天間基地の移設問題』に関して多くを投稿してきた。

昨年の秋、鳩山首相の就任以来の言動に戸惑いながら失望してきたひとりであるが、
今回の鳩山首相の沖縄訪問の前後に、いたたまれずこのサイトに、
沖縄県民はもとより、国民を愚弄している鳩山首相の言動に落胆しながら、
投稿してきた・・。

私は恥ずかしながら政治・外交・軍事・経済なども疎(うと)く無力な身であるが、
何かしら言動をしなければ、単なる黙認となり、現状を認知しまうので、
言葉によってこのサイトに散文の形で発露してきた。

もとより今回の『普天間基地の移設問題』に関して、
日本の防衛の一環であり、単に沖縄県民だけの問題だけでなく、
国民が共有して対応する問題であるので、私も国民の責務と思い、
このサイトに綴ってきたのである・・。

そして批判することは園児でも出来きるので、
つたない我が身なりに、解決策はないのかしらと思いながら、
昨夜、【私なりの『普天間基地の移設問題』、解決策のひとつの私案としては・・。】
と題して、投稿したのである。

あるサイトに於いて、沖縄にお住まいのご婦人と思われる方から、
コメントを頂いたのであるが、
私は今朝、拝読した後、私は『沖縄』に関して、
沖縄に住んでなく日常生活も知らない私が、どのくらい真摯に知っているのかしら、
と思索している。

私は単なる旅行者として二度ばかり訪れたうわべの思考、
或いは書物などで学び、数多い感傷者のひとりだったのかしら、と考え込んでいる・・。

やむえず私は、このサイトに『沖縄』に関して投稿してきたのを、
改めて読み返しながら、やはり私の思いは浅く甘かった、と反省しながら、ぼんやりとしている。

                             
                               《つづく》



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