♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

京橋川:鶴見橋・原爆被災説明板

2022年08月06日 07時48分46秒 | 被爆建造物等
南区比治山本町に広島市によって建立されている「鶴見橋・原爆被災説明板」です。
爆心地から約1,650mでした。

説明文は、
『被爆当時、この橋の西側では動員学徒や義勇隊の人びとが、焼夷弾などによる延焼を防ぐため、建物疎開作業に従事していました。
人類史上最初の原爆投下により、この作業に動員されていた多くの人びとが犠牲になりました。
原爆の強烈な熱線により欄干など(当時木造橋)に着火しましたが、すぐ消し止められ、多くの被災者がこの橋を渡って比治山などに避難しました。
シダレヤナギもかろうじて被爆に耐え、今日まで生き続けています。』


(裕編集の)鶴見橋・原爆被災説明板

8月6日原爆忌
(安芸区のわが家付近)天候:くもり
27.7℃、89%

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元安川:元安橋・原爆被災説明板

2022年08月05日 07時35分19秒 | 被爆建造物等
2017年6月23日撮影


中区大手町、元安橋東詰南側に建立されている「旧・元安橋(もとやすばし)原爆被災説明板」です。

※2020年7月元安橋西詰めのレストハウスが、大正屋呉服店として建設された当時に近い形でリニュアルされました(ので)。原爆被災板の背景が変わりました。

2021年11月7日撮影


原爆被災説明板の説明文は、
『1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原子爆弾の爆風により点灯装置の笠石が左右逆方向にずれ、欄干も元安川に落下しましたが、橋自体は崩壊を免れました。
この状況は、その後爆心地を推定する重要な史料となりました。
現在の元安橋は、1992(平成4)年に被爆当時の親柱。中柱を利用し、1926(大正15)年の竣工当時の姿を再現したデザインで架け替えたものです。ここには、被爆した中柱2基を保存しています。』

(裕編集の)元安橋・原爆被災説明板

8月5日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(小雨降る)
27.7℃、80%

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中区:廣島郵便局(模型)

2022年08月04日 07時59分16秒 | 被爆建造物等
中区大手町の元安橋東詰に建っていて被爆して灰燼に帰した「廣島郵便局(本局)」を取り上げました。

2006年“広島逓信病院被爆資料館”を見学した時、展示写真で建物の姿の一端を知ったのですが。
昨年改修された平和記念公園レストハウスで(戦前の)中島地区のジオラマを見たとき、
廣島郵便局の建物が模型とはいえ以前みた写真よりもよくわかったのでこれを頁にして(戦前の)廣島郵便局本局の紹介になるのではと思ったのです。

煉瓦造2階一部3階+地下1階建でモダンな時計塔がある建物だったそうです。

※1945(昭和20)年8月6日原爆による広島郵便局での殉職者は、
(多数の男性が軍隊に行っていた為)多くの女性や学徒動員の女学生、国民学校高等科の生徒だったそうです。
廣島郵便局職員殉職の碑に刻まれている職員288名殉職の他に女学生1名、育児室にいた幼児8名も犠牲になったそうです。

(裕編集の)旧・広島郵便局(本局模型)

8月4日(安芸区のわが家付近)天候:晴れ
29.9℃、80%

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南区:廣島郵便局殉職者之碑

2022年08月03日 07時31分27秒 | 原爆慰霊碑等
南区比治山町の多聞院に建立されている「廣島郵便局殉職者之碑」です。

※1945(昭和20)年8月6日被爆当時、広島市細工町28番地の広島郵便局は、(爆心地の)島病院の道路向側でしたので、全員が犠牲になったそうです。

犠牲者には、動員中の祇園高等女学校と本川国民学校高等科の教師・生徒も含まれるそうです。
碑は比治山の多聞院に建立され、職員222人と動員学徒64人教師2人の名前が刻まれています。

貳拾八年八月六日建之


2001年以来何度か拝見しているこの碑裏面を今回見たとき、
今まで(ぼんやりと見ていたのでしょう)全く気にも留めていなかったこの碑の建立年、昭和ではない和の字に気が付いたのです。
いままで、(わたしなりに)色々な石碑をみてきましたが、
昭和を『昭』と記した石碑は(わたしは)はじめて意識してみたのでした。
揮毫者の名は無いようでわからなかったのですが、
戦争の時代とも揶揄された昭和。
(その昭和時代の)原爆殉職者の方々への強い思いがこの漢字に込められているのだろうか?と思ったので、取り上げることにしたのです。
(裕編集の)廣島郵便局殉職者之碑

8月3日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
28.5℃、82%

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南区:(被爆した建物)多聞院・鐘楼

2022年08月02日 08時07分58秒 | 被爆建造物等
南区比治山町に建っている“吉祥山遍照寺・多聞院”「被爆した鐘楼」です。
※多聞院・鐘楼は、1945(昭和20)年8月6日爆心地から1,750mで被爆した建物です。

*被爆当時、梵鐘は金属供出でなかったそうです。
梵鐘は、戦後1949(昭和24)年「平和の鐘」として製作奉納されたそうです。

この面には“南無戰災靈聖”と鋳込まれています。


こんかいは、戦後平和の鐘として鋳造された梵鐘の四方に鋳込まれた文字に注目し更新しました。
(裕編集の)(被爆した建物)多聞院・鐘楼

8月2日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
28.6℃、81%

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南区:多聞院・原爆被災説明板

2022年08月01日 08時14分28秒 | 各種記念碑等
南区比治山(ひじやま)町の多聞院(たもんいん)に広島市によって建立されている「多聞院・原爆被災説明板」です。
*被災説明板に写っている本堂は戦後修復され使用されていましたが、
火災で焼失し現在は再建された本堂になっています。
『爆心地から約1,750m
原爆の爆風により瓦が全部落下した多聞院本堂(昭和9年建立)には、1945(昭和20)年8月6日夕刻、倒壊・全焼した県庁(※県庁の緊急避難先に指定されていた)に替わり県防空本部が置かれました。
翌日、県庁は東警察署に移りましたが、同院は救援物資の受付や、比治山に逃げてきた多数の被爆者などに握り飯の配給の手配などが行われました。・・・・・』



(裕編集の)多聞院・原爆被災説明板

8月1日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
28.4℃、82%

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