明日より、春の風景(短編小説・後編:全五話)を連載致します。お楽しみに!
『残月剣 -秘抄-《師の影》第十二回』は5/7に掲載致します。
水本 爽涼
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第十一回
一馬は漸く平静に戻った息遣いを整えながら、
「そんなことはないのです。私達の眼には、居られないように見えるのですが、実は…、絶えず私達を観ておいでなのです」
「えっ? しかし…」
「今の貴方に分からないのは無理からぬ話です。入門され、まだ数日なのですから」
一馬は微笑んで、ふたたび額(ひたい)に噴き出した汗を襤褸(ぼろ)布で拭った。まだ数名の者が打ち込みや掛り稽古を続けている。竹刀の交差する、ささくれ立った音と激しい掛け声の応酬とが、時折り混ざり合って響く。この日も左馬介の稽古といえば、蟹谷が指導する提刀(さげとう)の姿勢での歩行練習のみで、後は座っている他はなかった。
昼の握り飯と沢庵は実に美味い…と、皆は云う。荒稽古で充分、腹が空いているからなのだろうが、左馬介としては、歩むのみの稽古だから空腹感を覚える訳がない。しかし、無理にでも一つは喉に通した。午後の部の稽古は未(ひつじ)の下刻からと決まっている。だから、それ迄に食後の皿を洗い、後片付けを終えて夕餉の最小限の準備をしておくのである。漸くそれが済むと、未の下刻までの残った時が一馬と左馬介にとって唯一の憩いの時となるのだった。