残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第十五回
その時である。一匹の野良風の猫が、ゆったりと道場へと入ってきた。さも、場慣れしている風で、少しも人を恐れぬ態の歩き様である。左馬介は、一度もその猫を見たことがなかった。このままには捨て置けぬ…と、思った左馬介は、矢庭に立ち上がるとその猫に近づき、手を掛け追い払おうとした。
「秋月さん! そのままに…」
それを制するかのように、組で形稽古中の一馬が、遠くから声を飛ばした。そして、組み相手をしている長谷川修理に軽く一礼すると、バタバタと早足で左馬介の所へやってきた。
「その猫は、先生が飼っておられる猫で、獅子童子と呼ばれております。放し飼いに見えるのですが、実は、そうでもないのです。この猫が姿を見せるということは、この近くで先生がご覧になっておられる証(あかし)なのですよ…」
寸分も先生の気配などせぬではないか…と、左馬介には思えた。と、なると、一馬の言が左馬介には意味不明に聞こえる。一馬は、襤褸(ぼろ)布で首筋を拭くと、微笑みながらまた道場中央へと戻っていった。獅子童子と一馬が呼んだその福々しい蕪顔(かぶらがお)の三毛は、静かに体を床板へと下ろし、瞼を閉じた。