残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第二十一回
奇妙だとは思えても、やらねばならないという矛盾に耐えて、左馬介は日々、賄い番に汗を流した。
次の朝、一つの事件が起きた。何の前ぶれもなく、門弟の中堅、山上与右衛門が出奔したのである。その前日の夕餉まで、樋口を除く八名は、生活を共にしていた。
「いったい、何があったんだ!」
と、神代の顔を窺うように塚田が訊く。
「あ~ん!? 俺が知る訳がねえだろうが!」
塚田と相性がよくない神代は不満げで、殺気立ち、そう返した。他の者達も大方が顔を背けた。一人、師範代の蟹谷だけが、虚ろな眼差しで塚田を見て云った。
「そんなに、いきるな! 与右衛門。伊織ばかりが悪い訳でもないだろう…」
そう蟹谷に窘(たしな)められては、塚田も矛を納めざるを得ない。だが、そうは云ってはみた蟹谷にしろ、何故、山上が出奔したのか迄は分かっていなかった。狭いとはいえ、一人づつ与えられた三畳の小部屋がある。そして、定まった刻限になれば全員が行灯(あんどん)の炎を消し、そうして、やがては床に着く。これが堀川道場の決めであった。山上の小部屋は細い廊下を挟んで神代の真向かいにあった。塚田が神代の顔を窺って嫌みを云ったのは、そういうこともあった。