春の風景 水本爽涼
(第八話) ♪ 鯉のぼり ♪
中天にヒラヒラと泳いでいるのは僕の家の鯉のぼりである。勿論。鯉のぼりは僕の家だけではなく、ご近所のあちこちでも泳いでいるのだが…。
「じいちゃん、この鯉のぼりはいつ頃からあるの?」
単純な質問をじいちゃんに浴びせると、案外すんなりと回答が示された。
「ああ、これなあ…。そう、あれは正也が、まだ二つの時だったなあ、確か…」
そう云われては、当時を知らない僕としては二の句が継げず、フ~ン…と流すしかない。仕方なく、黙って鯉のぼりを眺めながらチマキを頬張る。最近の都会ではチマキなどというものは食べないのだろうが、僕達の田舎では普通に作られ、普通に食す。よ~く考えれば、自然の息づく田舎で人間は育てられてきたように思える。別に田舎が良くて都会が悪いと云うのではない。というのも、都会では入手出来ない流行最先端の物や有名人に遭遇する機会も多いからだ。別に競争するというのではないが、田舎人の僕にとって都会は侮(あなど)れない存在なのだ。ただ僕は、水が滾々(こんこん)と湧く洗い場があるここが気に入っている。
父さんが上手いと自負して吹くハーモニカの音が、♪ 鯉のぼり ♪の小学唱歌を奏でて庭から流れてくる。
「あいつは、ちっとも上達せんなあ。アレ、ばっかりだ!」
父さんに聞えないのをいいことに、じいちゃんは散々に、こきおろす。
「お義父さま! お茶、置いときます」
母さんの声が離れと母屋の取り合い廊下の方から聞こえた。
「ああ…、未知子さん、すみません!」
じいちゃんは母さんに星目風鈴[せいもくふうりん]・中四目[なかしもく](十七目のハンデ付き)を置いている(星目は聖目、井目とも書くらしい)。一目、置く…とは、よく云うが、これだけ置く人はそうざらにはいないだろうと思える(何故こんな難しいことを知っているのかといえば、じいちゃんから聞いたからだ)。何かと世話になるだろう今後を慮(おもんばか)って、と思えるから、じいちゃんは伊達に某メーカーの洗剤Xで磨いたような蛸頭を照からせている訳ではない…と、敬(うやま)いつつ見上げた。ハーモニカの音が途絶え、父さんが母さんの置いた茶盆を持って離れにやってきた。
「バスで行ったのが正解でした。出歩いた日中は多少、暑かったですがね。渋滞とか詰め込みは関係なかったですから…」
「おお、そりゃよかったな。たまには、夫婦水入らずも、いいもんだろう」
今日のじいちゃんはチマキが効いて機嫌がいい。これなら、じいちゃんにチマキを毎日、食わせておきゃ…とも考えられるが、とても実現はしないだろう。じいちゃんは、父さんが運んだ茶を、フゥーフゥーと冷ましつつ飲む。僕も師匠に従って続いて飲む。父さんがヒラヒラと中天に泳ぐ鯉のぼりを見ながら徐(おもむろ)にポケットからハーモニカを採り出した。
「恭一、もういいから、やめてくれ!」
懇願するようなじいちゃんのひと言に、父さんは真顔に戻り、テンションを下げた。
第八話 了