春の風景 水本爽涼
(第九話) 講談
「やあやあ、心あらん者は聞いてもみよ! 我が祖先は今を遡(さかのぼ)らんこと四百と有余年。三河守、徳川家康公の家臣にて四天王にその人有りと謳(うた)われし、赤の備えも麗しき井伊が兵部少輔直政公。その御(おん)殿に名を賜りしは…ドウタラ、コウタラ…」
僕が訊ねたのが拙(まず)かった。じいちゃんは勢いづいて得意中の得意をひと節、長々とガナリだした。こうなれば、誰だって止めることは不可能だ。恐らくは、天皇陛下や総理大臣が頼み込んでも、やめないのではあるまいか…(と思えるほど集中して、ガナルのである)。
さて、何故こんな講談を聞かされる仕儀に立ち至ったのかという経緯を、冷静に解説しよう。
「…そんなことで、他の人の不幸を尻目にのんびりした湯治をさせて戴いたというようなことで…」
父さんの話によれば、ぶらっと地方道をバスで走った父さん達は上手くいき、逆に春の連休で温泉宿を予約した団体客が高速道路で起きた不慮の事故に巻き込まれ、旅館をキャンセルしたそうなのだ。その結果、多くの料理を只(ただ)、同然に食べられたそうである。そこ迄は、じいちゃんの講談とは何の関係もないのだが、この次のじいちゃんのひと言が引き金となった。
「ほお…、不幸を尻目に幸せ旅か…。まあ、夫婦水入らずで、結構なことだ」
「なんか嫌味に聞こえるんですよね、父さんの云い方は…。仕方ないじゃないですか」
「儂(わし)は何も云っとりゃせんだろうが…。だいたい、我が血筋にはな、そんな小事をやっかむような者は、おりゃせんのだっ!」
ここで、僕が訊ねた痛恨のエラーがでる。
「じいちゃん、僕ん家(ち)は、そんなに古いの?」
「古いの? だと、正也。では、前にも聞いたと思うが、じいちゃんがその辺りを語って進ぜよう…」
という流れで、講談が語られることになったのである。
十分程は延々と聞かされたが、漸くそれも終り、じいちゃんは喉が渇いたのか、一気に湯呑みのお茶を飲み干した。僕は、じいちゃんを労(ねぎら)わないと、また機嫌を損ねるのではないかと感じたので、「そうか…」と、分かりもしないのに一応の相槌を打っておいた。風邪予防のワクチン注射のようなものである。
「お義父さま、お土産の温泉饅頭でも摘まんで下さいな」
母さんがお饅頭を入れた菓子鉢を持って現れた。
「いやあ…。丁度、甘いものが欲しいと思っておったところです、未知子さん」
じいちゃんは満面に笑みをたたえ、母さんを見ながら蛸の頭を手で、こねくり回した。某メーカーのワックスZで磨かれたような輝きで光を放つじいちゃんの頭は、云わば、仏様の光背にも似て、その衰えるところを知らない。僕は危うく、その有難い頭に合掌するところだった。
第九話 了