残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《騒ぎ》第五回
「蟹谷がいる日は左馬介にお呼びがない。結局、打ち込み稽古の出来る日は、井上が代理で立った日のみであったが、幻妙斎の声を想い出し、苛(いら)だつ心を静める左馬介であった。
汗を拭き終え、井上と神代がふたたび防具を被り、掛り稽古を始めた。凄まじい掛け声が道場に谺(こだま)する。場内は蟹谷が神棚前に厳(いかめ)しい形相で立ち、その前で井上と神代、塚田と長沼、樋口と一馬が組稽古で組み合っている。奇妙なのは、いつも朝餉の時分に現れる変わり者の樋口静山が、どういう訳か既にいて、一馬に稽古をつけていることだった。左馬介には、その訳が分からない。
「そのような打ち込みでは、身体に掠(かす)りすらせぬぞ。どこに目を付けておる!」
いつもは無愛想な樋口の口が珍しく動いて、一馬に声が放たれる。一馬は樋口の言葉に幾らか上気し、遮二無二、樋口へと打ち掛かる。左馬介は二人の様を凝視する。樋口が円弧を描いて撥ね上げた一馬の竹刀が宙を舞い、床板めがけて激しく落下した。床板を叩きつける竹刀の音が衝撃的に響いた。
「観見(かんけん)の目付が出来ておらぬ…」
左馬介には樋口が口にした内容が解せない。竹刀を拾って立った一馬が両眼を閉じ、ふたたび中段に構えた。