水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

残月剣 -秘抄- 《師の影》第二十八回

2009年05月24日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          
《師の影》第二十八回

 確かに、師とは語らいの機会が数度あった。だがそれは、一方的なものであり、左馬介が言葉を受け、言葉で返したという性質のものではなかった。要は、単に聴いていた…、というだけの語らいなのである。
「千鳥屋のこと、先生は既に知っておられた。ははは…、儂(わし)もそろそろ、この道場に暇(いとま)を乞う時節が到来したが、まさか、この時に及んで、与右衛門の奴が出奔し、千鳥屋の用心棒になろうとは思おてもおらなんだぞ。…まあ、腕はここの門弟だったのだから、程々には遣(つか)えるのだが…。問題は、相手がムササビの五郎蔵一家だからなあ…」
 朝餉の席で、皆を前に話した後、蟹谷は箸を口へ運びながら隣席の井上に、そう話した。その声が左馬介の耳にも小さく届いて、聞こえた。
「旅籠の千鳥屋と云やあ、葛西じゃ随一ですが、何故、五郎蔵一家が嫌がらせをしてんでしょうねえ?」
 井上は食べ終え、白湯(さゆ)を飲みながら訊ねた。
「それなんだがな。どうも、賭場にしようって魂胆らしい…」
「葛西は、この堀川道場が売りものですし、賭場で有名になりゃあ、私らの沽券(こけん)に関わりますよ」
「そういうことだ。山上のことは扠置いても、堀川道場としても看過する訳にも、いくまいて…」
「先生は、如何様(いかよう)に仰せで?」
「いや、訊いてはおらんから分からぬが、もう既に、そのことで動いておいでの御様子じゃ」
「先生は神出鬼没ですからなあ。ははは…」
 二人が笑い合っている。左馬介の両耳にも、その声は届いていた。

                                  (師の影) 完


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする