竹原は名誉を捨てて生きた男である。彼の行いなら優に世界の注目を一身に浴びても決して怪(おか)しくはなかった。だが竹原は、それが嫌だった。彼は現実に齎(もたら)される結果を大切にした。そのことが彼にとっては重要で、名誉などはどうでもよかった。
「ははは…名誉かね。それは、生きていく上での方便だよ、竹原君。私ら研究者には無用のものさ…」
恩師の吹上教授は研究室で助教授の竹原に、そう諭(さと)した。教授が大学院から去り、後を継いだ竹原は、いっそう研究に傾注するようになった。
三年後、彼はついにある種の遺伝子変換理論を完成させた。学会で提示されれば、明らかにノーベル賞に匹敵する発見だった。この理論を極秘裏に実践に移し、竹原は治験で100%治癒の実証を得た。国は薬剤の承認を遅らせていた。意図してなのか? 第二相段階から第三相段階への治験が年単位で遅延していた。竹原は焦(じ)れていた。彼を必要とする多くの患者が待っていた。承認が遅れる中で、多くの患者の命が消えていった。深夜、竹原はそれらの患者の家へ出向き、密かに門前で土下座し、帰った。屈辱の涙が彼の頬を幾筋も伝った。そしてついに、彼は決断した。
一年後、多くの患者の命が彼の新薬により救われていった。その事実が世間一般に広がるにつれ、マスコミは竹原に注目しだした。連日の報道合戦が行われるようになった。日本は申すに及ばず、世界各国から多くの患者の問い合わせが彼の許(もと)へ殺到した。厚労省は無認可薬品の不正使用を放置できず、ついに動いた。竹原は薬事法違反で検挙された。そうなることは竹原も覚悟の上だった。彼は名誉をかなぐり捨て、多くの命を救った。
一年後、公判の席で竹原は満足の笑みを浮かべていた。彼は執行猶予で釈放された。一方、厚労省内部では、治験遅延の原因となった関連企業との疑獄事件が検察庁特捜部により摘発され、関与した多くの者達は懲戒解雇の後、逮捕された。
完