あの味は忘れられん! と、事あるごとに住尾は思い出した。その味は住尾が生涯で初めて口にした絶妙の味だった。彼がその料理を口にしたのは、故(ゆえ)あって友人となった稲辺という大学院生の実家である。
それは、数年前の寒い夜のことだった。
「まあ、上がれよ! 今日は皆、旅行に行ってな。誰もいないんだよ」
「…」
ああ、そうなんだ…と思いながら、住尾は言われるまま黙って靴を脱いだ。
稲辺は冷蔵庫から缶ビールを2本出し、1本を住尾に渡した。
「お前、腹減ってないか? 夕飯、まだだろ?」
「ああ、まだだ…」
住尾は事実をそのとおり話した。
「よし! じゃあ、準備するから食ってけよ。俺も腹空いてるから、すぐ支度(したく)する」
稲辺は賑やかに動き出した。そして10分後のテーブルには一応、食事が出来る形が構成された。だがそのとき、住尾は、おやっ? とテーブル上のセッティングに違和感を覚えた。皿や茶碗、箸などは置かれていた。しかし、肝心のおかずは沢庵以外、見当たらない。住尾が訝(いぶか)しげに稲辺を見ると、稲辺は鍋を持って奥から現れた。
「お待ちっ! これを温(あたた)めてたんだ。さあ食べよう」
稲辺がテーブル上に置いたのは、明らかにスキ焼の匂いがする汁だけの鍋だった。普通はスキ焼なら卵とかを割った小鉢が置かれ。グツグツと煮えた肉や他の具材を箸で摘(つ)まみながら食べるんじゃないのか…と、住尾は不満はないものの奇妙に思った。
「ああ、これか…。昨日、スキ焼だったんだ。お前一人、留守番させて申し訳ない、とかなんとか言われてさ。ははは…、結局、そう言いながら全部、食べて家族は出かけたよ。まあ、うちの家族はその程度さ。しかし、美味いぜ、これを温(あった)かい御飯にかけて食べると…。まあ、騙されたと思って食べてみな」
稲辺にペラペラと流暢に話され、住尾は断る訳にもいかず、稲辺と同じ所作でスキ焼の残り汁を熱々の御飯にかけて食べた。ひと口…ふた口…これが絶妙の味だった。住尾は知らないうちに三膳をおかわりして食べていた。
あの味を求めて試してみたが、材料が違うからなのか、はたまた味付けが違ったからなのか、住尾は未(いま)だに、あの味に巡り合ってはいなかった。
『美味しかったですか?』
ある夜、夢に、そのスキ焼の汁が登場し、話しかけてきた。
『美味しかったですか?』
『ええ、とても。もう一度、あなたが食べたい…』
住尾は思わず夢で語りかけていた。スキ焼の残り汁は、ニンマリと笑った。
完