「まさか、そんな! 常務が…」
業務部の部長代理、北舟が驚きながら副部長の熊毛に返した。
「いや、本当らしいですよ、部長代理。どうも常務、魔が刺したというか…」
北舟よりはいくらか情報通の熊毛は、穏やかに北舟の耳元で囁(ささや)いた。
「いやぁ~、副部長。すぐには私、信じられんです。常務は身持ちの堅い方ですから」
「私だって同じですよ。まさか、あの方が…って、今でも思いますよ。彼女は社長のコレでしょ?」
北舟は右手の小指を立てて熊毛に示した。
「らしいですね。で、いつの話です?」
「いやあ、昨日ね。秘書課の揚羽君から…。いや、彼女も風の噂(うわさ)って言ってたんですがね」
「風の噂ですか…。だとすれば、専務派の工作ということも考えられます。いや、その可能性が、むしろ高いですよ、副社長を決める役員会前ですから。私達としては迂闊(うかつ)なことは申せません」
熊毛が北舟に釘を刺した。そこへ業務部長の小鹿が、か細く現れた。
「あなた方、どうかしましたか?」
「いやなに…。カクカクシカジカなんですよ、部長」
熊毛は情報のあらましを小鹿に報告した。
「それは、間違いなく営業部の諜略(ちょうりゃく)だぞ、君!」
歴史好きの小鹿は、か細く断定した。
「はあ、私もそうは思うんですが…。実はですね…」
熊毛は、今にも小鹿を食べるように耳元で囁いた。
「ほう…常務が。なに? …うんうん。揚羽君から。ああ、…あの子なら知ってる。…風の噂だって? 詳しく今夜、聞いておくよ」
熊毛が耳元で話す勢いに圧倒され、小鹿はつい本音(ほんね)を漏(も)らした。
「ええっ!」「ええっ!」
北舟も熊毛も驚いた。まさか、揚羽が小鹿のナニとは知らなかったのだ。本人が洩(も)らしたのだから、これは間違いがない。さて、そうなれば、常務の噂よりこの事実を専務派の営業部に知られることの方が危(あや)うくなる。
「部長! しばらく、揚羽には逢わんで下さい! 漏れれば、常務が不利になります!」
熊毛が小鹿に懇願(こんがん)した。
「分かった…」
これが、風聞を封じる三人の掟(おきて)となった。だが、話は予想もしないところから漏れたのである。それは、夫の行動を不審に思った小鹿の妻が素行調査を依頼し、会社役員の婦人会で愚痴ったのだった。ところが時を同じくして、営業部長の猪田の浮気も妻の愚痴で発覚し、常務派と専務派の抗争は引き分け(イーブン)となった。
一週間が過ぎ去り、役員会の席である。
「副社長には系列会社の岡田社長を招聘(しょうへい)することにした。皆、宜(よろ)しく頼む!」
創業者である社長のひと声で、役員会は五分で終わった。専務派も常務派も、『トンビに油揚げか…』と、テンションを下げた。
完