蒸し蒸しとした夏の空気に、私はアノ雷がまた来るのだろうか、と思いました。アノというのは、実はこれからお話しする一部始終に関係があるのですが…。
私はその日も都庁の仕事を終え、帰路を急いでいました。
私の家がありますのは都心から遠く離れた郊外ですので、夏とはいえ自宅に辿り着くと、残業をしない日でも薄闇が迫る頃になっていました。
通勤は車で近くの鉄道の駅まで行き、と云いましても二十分程度なのですが、そこから乗換えなどもあり、約一時間半で勤務地に着くという塩梅(あんばい)です。
その日も勤務を終え、寄り道のホオズキ市で買った鉢を助手席に乗せて車を運転しておりました。そして、もう少しで家へ着こうという矢先、あの雷に出会ったのです。
その日も蒸し蒸しとしていましたが、俄かに空は昼の日照りが嘘のように全天灰色に包まれ、それでいて雨は降らず、ときおり空は白く閃いて、稲妻が鋭いラインでくっきりと流れていました。雷鳴は駅に着いた頃、遠くで微かに鈍く響いていましたが、また一雨来るんだろうな…という感覚だけで、別段、いつもと変わらないようでした。そして私は、月極(つきぎめ)の駐車場から車を走らせ、次第に大きくなる雷鳴にも躊躇することなく、家路を急いでいました。
大粒の雨がポツリポツリとしますと、ザザ~っと降りだしました。それでも、そんなことは過去にもありましたので、恐ろしいという感覚はありませんでした。
ところが、辺り一面に大粒の雨が降る激しい夕立となり、暫(しばら)く車を走らせていた頃、俄かに車中が真っ白い閃光を浴びました。その時、私の記憶は一時、遠退いたのです。
気がつくと、私は職場である都庁の机にいました。時間は? と、腕を見ますと、午前九時頃で、周囲の同僚達は皆、机に向かって仕事をしていました。しかし、机のレイアウトは全く変わっていて、私の机だけが孤独に突出しており、しかも一人だけ隔離されたようなガラス窓近くにあり、その他の席は私の展望の効く前方に、ことごとく位置していたのです。
私は少しウトウトと眠っていた感覚で、それでいて前後の時間の感覚がなく、少し離れた同僚に向き合っていたのでした。
「今日は何日だい?」
「何、云ってるんですか。今日は浅草のホオズキ市へ行くと、先ほど云ってらしたじゃないですか」
敬語使いの同僚に、私は動転してしまいました。
「おいおい、何だ他人行儀な云い方してさぁ、俺がそんなこと云ったか?」
同僚は笑いながら続けました。
「先ほど云われたじゃないですか。部長、どうかされてますよ。それに部長、髪が逆立ってられます。直された方が…」
瞬間、部長だって…と、私は茫然と思いました。
「… … …」
無言で頭に手を伸ばすと、確かに頭の髪の毛が一部、逆立っていたのです。
その後、仕事の書類に目を通しましたが、今までに見たこともなく、それより書類の日付に驚かされました。車を運転して帰宅したあの日の二十年後でした。しかも私は、よく見ると部長席に座っていたのです。
ホオズキ市は七月の九日から十日で、私は20年後の夏に存在していたのです。
私の目に入るものは、全てではないにしろ真新しい物ばかりでした。ひとつひとつ、アレはなんだ! コレはどうしてだ! と、訊くこともできず、私は探偵にでもなった気分で辺りの様子を窺(うかが)っていました。
その一つに、二十年前には未だ販売されていない電送装置がありました。所用で来る都民サービス用の装置で、待ち時間などに希望者がボタンを押すと、即座に欲しいものが取り寄せられ、購入できる装置でした。それが、食事、雑貨、雑誌などの書籍に分類して、それぞれ設置されており、至極当然のように都民が利用していたのです。
これには驚かされましたが、他人の目を盗んで、チラリチラリと上目遣いで観察しました。そして時間も経ち、トイレへ行きますと、それは単に驚きというものではなく、はっきり云いますと、驚愕するといった感じに変化し、私は今にも卒倒しそうになったのです。と、いいますのは、鏡に映る自分の姿でした。あの雷に遭遇する前の自分の姿は消え、鏡に映った姿は紛れもなく自分ではありましたが、その反面、自分ではなかったのです。老いが迫った白髪の紳士が、そこに立っていたのでした。
目の前の仕事を取り繕うように、私は戸惑いながらも何とかその日を済ませました。
勤務を無事終え帰路を急ぎましたが、初めて上京した若者のように、訊きつつ確かめながら自宅へ向かったのです。僅(わず)か10分余りで最終駅に着いた交通の便の変化にも驚かされました。
雷に出会ったその日と同じように駅へ着き、月極(つきぎめ)の駐車場へ近づきますと、そこには確かに自分の車がありました。しかし、駐車場は荒んでおり、それよりもなにも、驚いたのは埃(ほこり)まみれの私の自動車があったことです。それでもエンジンは、バッテリーも上がっておらず、すぐに始動したのが不思議でした。ただ、周囲の超近代的な車に比べ、明らかに時代遅れの感は拭えませんでした。私は車を走らせました。
空は、あの時のように昼間の太陽のギラツキは消え失せ、俄かに全天灰色に包まれ、それでいて雨は降りません。時折り、空は白く閃き、小さく鈍い遠くの雷鳴とともに、稲妻が鋭いラインで鮮明に流れていたのです。これは、あの時と全く同じでした。
助手席には、あの日に買ったホオズキの鉢がありましたが、土塊のみが存在するだけで、僅(わずか)に枯れた茎の名残りを留めるだけでした。
私は、今となっては20年後になってしまった家路を急ぎました。
蒸し蒸しとした曇天の薄暗い空に、私はあの雷が、また来るのだろうかと思いました。
リフレーンするかのように、その現象は、ふたたび起こりました。急に目の前を閃光が白く走り、私の記憶は遠退いたのです。
気づくと、私は20年前の都庁へまた戻っていました。即ち、私が最初の雷に遭遇した朝に私は存在したのです。時間は午前九時頃で、これも前回と同じでした。
周囲の同僚は皆、机に向かい仕事をしていました。ただ、私は部長席ではなく、以前の私の席に座っていて、その両隣には、いつもの同僚がいました。
急に隣の同僚が話しました。
「お前、今日帰りにホオズキ市へ行くって云ってたよな?」
私は麻痺した感覚から我に帰って、「ああ…」とだけ答えました。目の前の書類は、あの雷に出会った最初の日には、既に決裁へ回した筈のものでした。私は、また同じ仕事をすることになったのです。
何故、私だけがこのようなハプニングに出会ったのか…それが深い疑問でした。今日はホオズキ市へ行くのをやめようか…とも思いました。しかし何故か、ひとつの時空に閉じ込められたかのように、以前、経験した同じ流れで時間が進行していくのです。なんとか状況を変化させてみようと私は焦りました。このままでは時空に閉ざされてしまうという危機感がありました。焦れば焦るほど、状況は刻々と以前と同じように進行していきました。『そうだ、仕事をせずに決済へ回さないようにしよう。そうすれば、結果は自ずと変わってくる筈だ…』と、単純に考えました。しかし、思考とは逆に、身体が操られるかのように仕事を片づけていくのです。とめられないジレンマに?(もが)きつつ、私は気が変になりそうでした。
『ホオズキ市へは寄らないぞ』と、心に決め、私は帰路に着いたのです。
前世の因縁か…、この時点で私はそう思っていました。
私はこれから先を、皆さんにお話ししたくはないのです。でも、話の進行上、やはり話さねばならないでしょう。
寄り道をせず、あの日のように駅へ降り立ちました。駐車場の私の車に近づき…、その時、私は唖然としたのです。寄ってもいないホオズキ市の、あのホオズキの鉢が…、車のガラス越しに見えるではありませんか。しかもあの時と同じ助手席の上に置かれ、橙色の実をたわわにつけて…。
私は考えました。もう家には戻れないのだろう。そして、このまま時が進行すると、帰り道であの雷に遭遇し、ふたたび20年先へ連れて行かれ、しかもそれが永遠に繰り返されるのだろうと…。時空ポケットに陥った私、そうなるのが分かっているのなら、真新しい情報を入手して20年後に戻れば、特許、占い師、ギャンブルでの成金も…と、金欲も膨らみ、発想は飛躍していきました。
「フフフ…」と、吹っ切れたかのように無意識の微笑を浮かべ、私は車に乗り込みました。小悪人になった気分でした。
そして、私が予感したとおり、ふたたびあの雷に出会ったのです。
白い閃光が走りました。やがて私の意識は案の定、ふたたび遠退いていきました。
悪い発想をすれば、結果は自ずと惨めになるものです。
「パパ、遅れるわよ」
妻の声で、目が覚めました。私は夢を見ていたのです。…いや、でしょう。
横には六才になる長男が寝相悪く寝ていますし、昨日二人で遊んだゲームソフトが枕許(まくらもと)にありました。そういえば、何度も振り出しに戻ったことを思い出しました。暑さで悪夢を見てしまったんだ…と、思いました。
『ハハハ…、そんな馬鹿な話はないよな』と、自分に言い聞かせつつ、夢であった安堵感と久しぶりに得たような開放感で、その朝、私は都庁へ向かったのです。
そして、仕事を終え帰路に着きました。
空は、また降りだしそうな薄墨色の空になり、蒸した熱気も夢の続きでしたが、あの出来事は夢だったんだ…という開放感がありました。そうして、漸(ようや)く、いつもの駐車場へ着き、止めた私の車に近づきますと、なんと…、窓ガラス越しに私の両眼に映ったものは…。
買っていない筈のあのホオズキの鉢が助手席の上に置かれてあり、そして雷鳴が遠くで小さく響き……。
完