チラホラと桃が咲き始めた別荘の庭を、大会社の社長にまで出世した耳長は散策していた。春になれば、耳長の大豪邸には、さまざまな花が咲き乱れ、耳長の心を和(なご)ませた。むろん、それは花に限ったことではなく、荘厳な庭園仕立てが施(ほどこ)された中に植えられている樹々にしてもそうだったのだが…。
「耳長さん!」
不意に、杖(つえ)をついてゆったりと歩く耳長へ届く声がした。耳長は立ち止り、辺(あた)りを見回したが、誰一人としていなかった。よく考えれば、今、この庭を散策する人物は自分をおいて他にいる訳がなかった。ただ一人、庭に出ていなくもない執事の室月は、今、朝食のテーブル準備に余念がなく、その姿はガラス越しに見えたから、彼でないことは明らかだった。彼は耳長と同い年で、耳長が唯一、心を許せるいい茶飲み友達でもあった。聞こえるはずがない声に、耳長は年老いて幻聴を聞いたか? と軽く流し、また歩き始めた。
「耳長さん! ここです」
やはり、声がする…と耳長はふたたび立ち止って辺りの様子を窺(うかが)った。すると、耳長が見回す一角に植えられた一輪の桃の花の台(うてな)に小さな女性が立っている姿が目に止まった。そん馬鹿な話があろうはずがない…と耳長は刹那(せつな)、思った。眩(まばゆ)い光背を輝かせたその姿は、まるで仏だった。だが、現実に、耳長の目にその小さな女性の姿は見えていた。耳長は目を擦(こす)ったが、やはり姿は見えた。
「私はあなたが子供の頃、お助けいただいたセキレイです。今日はお暇(いとま)を申しに参りました。その節(せつ)は、どうも有難うございました…」
耳長は、そんなことがあっただろうか? と、当時を思い返したが、すっかり忘れていた。セキレイの精は話し続けた。
「あなたは、大金持ちになられましたが、それは私達一族からの、ほんのお礼です。では…」
「ああ、もし!」
耳長が声をかけたとき、すでに花の台に姿はなかった。そして、一陣の風が吹き渡り、その桃の花びらはハラハラと舞い落ちた。耳長は幻覚を見た…と思うことにした。だが、その声は耳長の脳裡に刻まれていた。
ふと、振り返り、邸内へ戻ろうとした耳長は目を疑った。大豪邸は忽然(こつぜん)と消え、そこには普通の家が立っていた。執事の室月は消え、家の中には誰もいなかった。耳長はただの独居老人になっていた。
完