水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

不条理のアクシデント 第七話  テクシー   <再掲>

2014年06月24日 00時00分00秒 | #小説

 道彦は歩くのを常としている。ジョギングなどと世間でもて囃(はや)されるその手の行動ではなかった。飽くまでも手段として・・なのである。長閑(のどか)に辺りを散策していると、なぜか気分が落ちつくのだ。無心でゆったりと流れる風景を眺(なが)めていると心地よくなる・・その感覚を大いに気に入っていた。世の中への迎合で運転免許も取ったが、使わないのに更新料や写真代が無駄に思え、二十五年ばかり前に返上した。自分ではタクシーの運転手気分でテクテクと歩いている。だから、家を出るときはテクシーを始動します・・と、心に言い聞かせるのが常だった。テクシーで家を出て、駅に着く。少し離れた会社への通勤は、もっぱらこの手である。休日は当然、テクシーで、あちらこちらとブラリ旅を決め込む。腹が空けばテクシーを駐車場へパーキングした気分で止め、適当な店へ入るのだ。自分は運転手気分なのだからお客さんが乗る可能性もあったが、道彦はそう気に留めていなかった。そんなことがある訳がない・・と深層心理が働いていたからに違いない。ところがある日、異変が起こった。その日は会社の休日で、道彦はいつものように適当な額を財布へ詰め込み、テクシーを始動した。
 長閑な小春日和で、寒からず暑からずの快適さである。
「あっ! すみません! 麻布十番までお願いします!」
 急に後ろから声がかかり、道彦はギクッ! と振り返って止まった。一人の笑顔の中年男が立っていた。
「? …」
 道彦は首を傾(かし)げた。
「だって、空車なんでしょ?」
「ええ、まあ…」
 道彦は心を見透かされているようで、薄気味悪くなった。
「じゃあ、お願いします」
「分かりました…」
 一列縦隊で歩くテクシーが始発した。
「いい天気ですね。もう長いんですか? このお仕事」
「ええ…。もう、かれこれ二十五年やってます」
「と、いえば、大ベテランじゃないですか」
「ははは、まあ…」
 二人はしばらく、歩いた。やがて麻布十番へ近づいてきた。
「お客さん、どこで降りられます?」
「ああ、その辺で結構です」
 中年男は前方に近づく信号を指さした。
「ありがとうございました! お金は結構ですよ。うちのテクシーはお足がいりません」
「歩いてますから、お足がいらない…上手い!」
 信号の前で二人は止まった。
「それじゃ、お元気で!」
 中年男は笑顔でそう言った。二人は信号で二手に別れた。そのとき道彦は異変に気づいた。道彦は制帽を被り、タクシー運転手の服装で歩く自分の姿に気づいた。

                                 完


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