寝過ごして起きれば、昼前になっていた。いつもソワソワと動いている妻の美樹の姿が消えていた。家中を見回ったがいない。買物袋はある。ご近所か…と、静一は外へ出た。だが、隣の家にも、やはり人の気配はなかった。五月蠅(うるさ)い…と、いつも愚痴る近所の番犬が吠(ほ)える声もしなかった。うろたえた静一は110番へ電話をかけた。
「あ、あのう…誰もいません!」
静一が受話器に話しかけた途端、女性の電話音が聞こえた。
『この電話番号は現在、使われておりません…』
そんな馬鹿な! と静一は怒れた。昨日の夜、眠るまで家族は皆、いた。いや、いた、はずだった。そうでなければ、一家団らんで和気藹藹(わきあいあい)とスキ焼鍋を囲んでいたあの記憶は、すべて夢だったことになる。静一は、電話台の前のフロアへ腰を抜かしたように座り込み、茫然(ぼうぜん)した。ここはひとまず、落ちつこう…と、静一は息を吸い込むと大きな深呼吸を、ひとつした。それから、急須にポットの湯を注ぎ、熱目の茶を湯呑みに淹(い)れて飲んだ。そうだ! 携帯だ…と気づき、静一は電話帳に登録した番号へ片っぱしから電話をした。しかし、返ってくる電話音は、やはり攣(つ)れない女性の声だった。
『この電話番号は現在、使われておりません…』
小一時間が経過した。静一の顔は蒼ざめていた。これは、夢に違いない…と、静一は缶ビールを一本、飲み干し、ベッドへ潜(もぐ)り込んだ。すぐには寝つけなかったが、それでもいつしか深い眠りへと落ちていった。
ふと、気づいたとき、部屋の窓は薄暗く、すでに夕方近くになっていた。静一はベッドを降り、無気力にフラフラと部屋を出た。そのとき、キッチンで包丁の音がした。静一は喜び勇んでキッチンへと走った。そこには美樹の後ろ姿があった。
「あらっ! いらしたの? てっきり外出かと思ったわ…」
美樹が答えた。だが、振り返ったその姿は年老いていた。静一は嘘だろ! と、愕然(がくぜん)とした。だが、鏡に映る自分の姿を見たとき、静一は現実を信じない訳にはいかなかった。鏡の中には年老いた自分がいた。
完