決めごとではないものの、社会的に当然! ・・とされるのが常識である。思慮分別と呼ばれる曖昧(あいまい)で得体が知れないものだ。この常識は、取り扱いが実に厄介(やっかい)なのである。というのも、それは、まるで目に見えない透明人間みたいな存在で、それでいて強力な威圧感を人々に与えるのだ。これは人々が守らなければならない法的ルールとは一線を画(かく)していて、常識を守らなかったからといって訴えられたり罰せられたり、あるいは捕えられたりはしない。いわば世間で通用する暗黙の了解事項である。バスで席を譲(ゆず)ってもらい、お辞儀をする、あるいはお礼を言う・・これは常識だが、別にそうしなくても怒られはしない。お年寄りに席を譲ること自体が常識なのである。これに対し、列に割り込んだ場合はルール違反で怒られるし、場合によってはトラブルともなる。
館林(たてばやし)は、常識そのものを毛嫌いし、敢然(かんぜん)と挑戦する男だった。かといって、それは完全に真逆の行為をする・・とかいうものでもなかった。コレはっ! と不埒(ふらち)に思えたり、無駄、疑問と思ったことだけに逆行したのだった。
定年間近い館林が勤める町役場の住民福祉課である。
「いやいや円(まどか)ちゃん、そういうのは、いけませんよっ!」
館林は立つが早いか、お茶を淹(い)れようとした新入女子職員の百合川(ゆりかわ)にそう言って止めた。
「でも…」
「いいって、いいって。文句を言う者がいたら、私に言いなさいっ!」
館林は品(しな)を作って、少し格好よく言った。百合川は、ヒラのあなたでは…という頼りげのない眼差(まなざ)しで館林を窺(うかが)った。そのとき、課長席の掛川が大声を出した。
「円ちゃん、お茶!! どうしたのっ?!!」
「はいっ! ただいまっ!」
館林は格好悪く、黙って自席へと戻(もど)った。
常識とは、かくも手ごわいのである。
完