夕暮れが近づいていた。仕事に没頭していたため、井坂は夕飯のことを、すっかり忘れていた。腹が空いたことに気づいた井坂は、ふと、酢豚が無性(むしょう)に食べたくなった。豚肉はパックの買い置きが冷蔵庫にある。ピーマン、ニンジン、シイタケ、それにタマネギも冷蔵庫の野菜棚に入っている。よしっ! と井坂は意気込んで掛け時計を見た。5時過ぎだった。キッチンへと向かった井坂は冷蔵庫から野菜類を出し、適当な大きさに刻(きざ)み始めた。酢・大さじ5、醤油・大さじ5、砂糖・大さじ3、酒・大さじ5だな…と、検索したレシピどおりに準備をした。続いて、豚バラ肉を適当な大きさに切った。さあ! 準備はすべて整ったぞ! …と井坂はニヤリとし、レシピのメモを見た。が、そのときである。井坂は、あるものがないことに気づいた。片栗粉である。確か、この中に…と探(さが)したが見つからない。井坂は焦(あせ)った。切られた豚バラ肉は塩コショウに身を窶(やつ)し、今か今かと出番を待っている。最後の化粧用の白粉(おしろい)がないので困っている。開演は迫(せま)っていた。いつもは滅多(めった)と使わない出番の少ない片栗粉だったが、酢豚に片栗粉は欠かせない。だが今、欲しいときになかった。しかも、他の野菜キャストは全員が揃(そろ)っているのだから、幕が上がらない・・というのも妙な話に思えた。井坂は懸命に、いや、必死に収納棚、小棚、調理カゴ・・と探した。だが、やはりどこにも片栗粉は入っていなかった。日はすでに西山へと没(ぼっ)し、緩(ゆる)やかながらもオレンジ色の薄闇(うすやみ)が辺(あた)りを覆(おお)おうとしていた。井坂は決断した。ひとっ走り! …と、買いに出る決断をしたのだ。
井坂が住むマンション近くには、幸いにもス-パーがあった。井坂は急いで店に入った。
「すみません! あいにく切らしてまして…。明日(あした)には入ります」
店員はペコリ! と頭を下げて謝(あやま)った。明日では遅(おそ)いんだよっ!! と井坂は内心で怒れたが、思うに留(とど)めた。
「そうですか…」
井坂はテンションを下げ、店を出た。別のスーパーが2店、あることはあった。井坂はスーパーへ車を飛ばした。
「おかしいなあ…。えっ? ああ、そう…。お客さん、さっき売れたそうです」
ひと袋、残っていた片栗粉は売り切れて、なかった。ここで初めて井坂の心は無慈悲な現実に諦(あきら)めへと傾き始めた。井坂が店を出たとき、すでに辺りは暗かった。さあて、どうするか…井坂は迷った。そのとき、出番を待つ刻まれた野菜スタッフ達の顔が井坂の脳裏を掠(かす)めた。よしっ! ここは、やる他ないっ!! 井坂は、ふたたび決断し、最後のスーパーへと車を飛ばした。片栗粉はっ!! …あった!! ぅぅぅ…と瞼(まぶた)に涙を浮かべ、井坂はレジで握りしめた片栗粉を買った。
「どうされました?」
「いや、別に…」
訝(いぶか)しげに訊(たず)ねる店員に、井坂は小声で返した。
マンションへ帰り、電気をつけると、開演への調理が始まった。スタッフや準備は整っていたから、調理は殊(こと)の外(ほか)スムースに短時間で終り、井坂が待ちに待った酢豚は無事、完成した。井坂が味見をすると、実に美味(うま)かった。これでっ! …と井坂は意気込んだ。そして、皿に盛り付けた酢豚をテープルへと運び、井坂は満足げに夕飯を済ませた。洗い場で食べ終えた食器を井坂が洗い始めたそのときである。目の前に、探していた片栗粉の袋ち始めたが、美味かった酢豚に救われ、溜飲(りゅういん)を下げた。
完