通勤日の朝である。真竹(まだけ)は毎朝のように床(とこ)を出ると寝具を整えて衣類を着始めた。ところが、である。いつもは背広のズボンにあるはずの定期入れ[プリペイド型定期券など]が見つからない。真竹は焦(あせ)った。いつも1時間の余裕を持って起きる真竹だったから、遅刻するほどではなかったものの、いらぬ時間を取られることは必定だった。真竹は考えた。アレコレ持ち歩くと何かと手間がかかるから、身軽がいい…と。朝、せびろを切る前、まずハンカチ、ティッシュ、手帳、腕時計、頭髪用の櫛(くし)、財布、定期入れ、車のキー・・などを確認するのが真竹の生活リズムとなっていた。加えて、ワイシャツの汚れ、財布の中身など・・つまらない諸々(もろもろ)の気回しも必要だったから、真竹はある意味、通勤が重荷になっていた。そんなとき、今朝の定期入れの一件が起きた訳である。真竹は朝食のトーストをモグモグと食べながら定期入れを探し続けた。当然、トーストは真竹の口に咥(くわ)えられ、真竹とともに移動しているといった図である。だが、なかなか定期入れは見つからなかった。しばらく探してはキッチンテープルの椅子に座り、スクランブルエッグや野菜を適当に食べ・・いや、この朝の真竹の場合は小鳥のように啄(つい)ばみながら、探し続けた。まあ、仕方がない! 今朝は買うか…と、ついに真竹は諦(あきら)め気分で決断した。腕を見ると、まだ20分ばかりの余裕はあった。真竹は改めて、身軽がいい…と思った。
玄関で靴べらを手にし、真竹は、ふと靴箱の上を見た。置き物の前に定期入れが楚々(そそ)とあった。んっ? なぜこんなところに? …と真竹は解(げ)せなかったが、まあ、あったんだからいいか…と、そのまま施錠して駐車場の車に乗り込んだ。
それ以降、真竹は身軽を心がけている。必要品は、ほぼ勤務先のロッカーに保管され、真竹が持ち歩くものは必要最小限の物だけとなった。人は生まれたときは身軽で、死ぬときも身軽に死ぬんだ…と真竹は定期入れを見ながら欠伸(あくび)をした。
完