朝の洗面所である。甘酢(あまず)はマグカップに水を入れ、歯をゴシゴシゴシ…とやっていた。いつもより10分ばかり寝過ごし、会社の遅刻を気にする甘酢は少しばかり所作を急いでいた。いや、少しばかりというよりは、かなり、である。慌(あわ)てている甘酢は磨いたあとの歯磨き粉で溢(あふ)れた口を漱(すす)ぐため、水が入ったマグカップを化粧棚に置こうとした。確かに甘酢は置こうとしたが、慌てていたため所作を乱し、マグカップの中の残り水を背広ズポンにかけてしまった。そんな大したことではない…と、そのときの甘酢は思っていた。だが、その失敗は重大なミスだった。ズボンの中には昨日(きのう)、会社でメモした重要な取引先とコンタクトを取る電話番号の紙が入っていたのだ。甘酢は最初、そのメモした紙を背広の内ポケットに入れた。そこまではよかった。そのあとトイレに入ったとき、トイレットぺーパーがなかったので甘酢は内ポケットを弄(まさぐ)った。内ポケットには、こういう場合に備えたティッシュぺーパーが入っていたのだが、メモした紙も一緒に出してしまったのである。
ティッシュはそのまま手にし、メモ用紙は瞬間、汚(きたな)く感じたのかズボンのポケットに入れたのだった。それをつい、甘酢は忘れてしまっていた。甘酢にしては甘いミスだったが、そのズボンのポケットにマグカップの水を運悪く零してしまったのである。結果、紙は水で濡れてふやけ、書かれた文字は読めなくなってしまった。甘酢がその事実に気づいたのは会社へ着いてからだった。連絡も取れず、甘酢は困ることになった。零(こぼ)す前に…と悔(く)やまれた。
よくよく考えれば10分の寝過ごしに原因があった。その10分、寝過ごした原因は昨夜、飲み過ぎたためだった。飲み過ぎが寝過ごさせ、零させたのである。
零す前に…と、甘酢は会社帰りの鮨(すし)屋で一杯飲みながら美味(うま)い鮨を摘(つま)み、うっかりコップ酒を零した。
完