靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第五十六回
思いの丈を、ぶつけるのだ…。要は早智子の情報さえ得られれば、それでいい。問題はどう切り出すか…なのだが、取り敢えずは軽くいこうと決めた。
「あのう…実はですね。以前ここで働いておられた溝上早智子さんという方のですね…ことを御訊きしたいと思いまして…」
「溝上でございますか? その者は当社の社員なんでしょうか?」
「ええ…、その筈ですが…」
「で、その者にどのようなご用件で?」
「はあ、実はですね。お話しすると長くなるんですが、…あのう私は坪倉直助と申しまして本屋でございます。もう随分と前、そう今から、かれこれ二十年も前になりましょうか。その溝上さんの注文で、書本をお売りしたのですが…。ここでは、ちょっと言い辛い事情がありまして、現在働いておられる所だけでも知りたいと思いまして…」
「…、二十年前ですと今、当社で働いているかどうか、分かりませんね…。なんでしたら人事の者に応対させますから、しばらくお待ち戴けますか?」
「ええ、是非とも、よろしくお願い致します」
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第五十五回
怪しまれないために一張羅の背広を着て、髪も整えてきた直助だ。別に見栄を張って社内を闊歩するつもりは毛頭ないが、早智子のことを訊き出すとなると、やはり相応の服装が必要と思われた。地下一階、地上五階構造の社屋ビルは、この町では随一だ。自動扉を通り過ぎるとエントランスだ。左手前にカウンターがあり、制服姿の受付嬢が二名、穏やかな表情で座っている。直助は一瞬、躊躇したが、それでも意を決してカウンターへと進んでいった。
「あのう…、少しお訊ねしたいことがありまして、寄せて戴いたんですが…」
「はい…、どういったご用件でございましょう?」
「ですから、今言いましたように、少しお訊きしたいことがありまして…」
「はあ…。あのう…誠に申し訳ございませんが、もう少し詳しくお願い致します」
そう言われると言葉に詰まる直助である。このまま、「ですから、今言いましたように…」「はあ…。で、どういったご用件で…」という繰り返しが永遠に続きそうに思えた。これでは、まるで、茶番劇である。よく見れば、二人とも二十歳(はたち)そこいらだが今、直助に応対する受付嬢は肉感的で、中年の直助をも、そそる妖気がある。だが直助は怯(ひる)まなかった。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第五十四回
昼前まで時間を潰して、皆帰っていった。誰も店の方は奥さん連中に任せているから、そんなに慌てた素振りでもない。おっとり刀、とはよく言ったものだが、急いで帰ったところで、客の応対に追われる心配? も、ないからだ。それほどの客足があれば、皆が困ることもない訳である。
昼飯は適当に残りもので済ませて、直助は店を閉めて例の気がかりな早智子のことを調べてみようと思った。以前、といっても、もう二十年以上前のことだが、早智子の勤めていた和田倉商事を目指した。和田倉商事も今では別の敷地に豪壮なビルを建て、営業している。生活関連機器だけでなく、最新のIT関連にも手広く進出して大層、儲けているらしいと、風の便りに聞いていた。直助は早智子の知り合いということにして、出身地、出来れば現住所などを探ろうと思っていた。
秋の心地よい風が流れるなか、自転車を繰ると、陽光と青空も味方して非常に気分がいい。和田倉ビルは直助の住む町としては突出して大きなビルである。他にも二、三の近代的なビルがここ数年前に次々と建てられたのだが、和田倉ピルはその中でも最も大きいビルといえた。
駐車場は大きく、厳然として存在したが、果して駐輪場はあるのか、ないのか…その辺りのところが分からない直助である。取り敢えずはビルの隅の空きスペースへ自転車を止めた。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第五十三回
誰に言うともなしに、直助は話題を変えた。
「ほやなあ。この前の寄り合いのときは、なんとか考えるわって言(ゆ)うたはったけど、あれからもう、ひと月は経つでなあ」
鍵熊が枝豆の繊維が挟まった歯茎を、楊枝でシーハーさせながら、ぼんやり言った。
「この界隈の町並みを飾り立てて…とか考えたはるみたいやで」
肉屋の河北が脂肪太りした腹をボリボリと掻く。勢一つぁんは、一度消して半分残した煙草に、また火をつけて燻(くゆ)らせている。
「まあどっちにしても、結論を早う出してもらわんとな。わしらは小山はんが考えはった案なら、それで協力させてもらうにゃさかい」
「ほやな。いつまでもこのままでは、ジリ貧になるしなあ…」
勢一つぁんの言葉に直助は賛同した。上手い具合に幽霊の一件は、もう忘れられているようだ。内心、直助はやれやれ、と思った。この話は自分で調べてから話題にすべきだった…と、直助は今になって後悔していた。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第五十二回
暗闇のため、蒼白く浮かんだ像は、しかとは断定出来なかったが、確かに直助にとって見憶えのある女だった。それが今し方まで想い出せなかったのだ。しかし、その早智子が、なぜ幻のように直助の枕元へ忽然と現れたのか? その訳が皆目、理解出来ない直助だった。だいいち、二人は恋愛関係になるまでの仲ではなかった。直助は早智子に会ったときから好意を寄せていた。というよりは、一目惚れをして近づこうとしていたのだが、早智子の方が直助に好意を寄せていたかは疑問なのだ。それに単なる客だったとも考えられる。となれば、余計に枕元へ立った意味が解せない。思い当たることを、つらつら考えるが、やはり直助には浮かばなかった。
「なんやいな。話しかけといて、黙(だんま)り、かいな」
「あっ! そやな。まあ、んっ…」
一同は枝豆をモグつきながら笑った。まったく要領を得ない。だが直助は、このとき、謎が解けるかも知れんぞ、と思った。早智子の消息を探ることで、この奇怪な出来事の全貌が解けるように思えたのだ。皆にどう言おうか…、ここはひとまず適当にあしらっておこう…などと直助は算段した。
「まっ、この話はさておいて、商店会のことなんやけどな。ほん今、帰らはった会長の小山はん、その後なんか言(ゆ)うたはったか?」
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第五十一回
しばらくは休戦といったような雰囲気で、皆はふたたび各自の動きをする。ピイーンと張りつめていた閉塞感は拭われた。
「まあ皆さん、お賑やかなことで…」と、敏江さんが奥の部屋から物腰の低い笑顔で現れた。幾らか嫌味がなくもないが、機嫌のいい様子に全員、救われた。敏江さんの手には急須が持たれていて、それぞれの茶碗に注がれる。
「あんた、これ貰い物やけど、置いとくで食べてもらい」
敏江さんは勢一つぁんにそう囁(ささや)くと、ふたたび奥の間へと姿を消した。勢一つぁんの前には、笊(ざる)に入れられた塩湯がきの枝豆が山盛りされて置かれている。誰彼となく腕が何本も伸び、それぞれの口へと運ばれ、瞬く間に処理されていった。
「あっ、やっぱり!」
「なんやいな、急に」
直助は想い出したのである。その幽霊モドキの枕元に立った女が二十年以上前、川端康成の全集を買っていった溝上早智子であると…。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第五十回
「なんか、思い当たることでも、ないんかいな?」
勢一つぁんは麻雀牌をケースに収納しながら訊ねた。
「まあ、今のところは、な…」
「とにかく、様子を見てみたらどないや?」
鍵熊が、ポツンと放つ。
「熊田はんの言うとおりや。そうしか、しゃあないがな」
勢一つぁんが追随し、他の者も何やら呟きながら頷いた。場が萎(しぼ)んでいる。
「これは関係あるんかないのか、よう分からんにゃけど、ひとつだけある…ような、ないような」
「なんやねんな、どっちや!」
直助の曖昧な言い回しに、勢一つぁんはジレた。有り得ない話と不信感を拭えない勢一つぁんだが、いつの間にか、直助の壺の中へ引き込まれている。
「枕元に立ったソレやが、どっかで会(お)うたような、ないような…」
「なんやいな、もう! どっちなんや?」
「まあ、そう急かさんと…」
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第四十九回
「え~と、どこまで話したんかいな? また、忘れたがな、ははは…。…そうや、枕元に蒼白い幽霊…か、どうかは分からんけど、とにかく見たんや。そんで、布団に潜り込んだ。…この辺りやったな?」
「そや。そんで、そのあとは?」
「昨日(きのう)の今日やがな。朝一でここへ来たっちゅう訳でな」
「昨日の晩か…。なんか、生々しい話やなあ」
勢一つぁんが直助の顔を窺う。
「これが夏なら丁度、もってこいの話なんやけどな。ちょっと時期がずれとる」
鍵熊が笑って茶化す。一瞬、場の雰囲気が和んだ。
「皆、なんかええ手立てはないもんやろかな」
直助が全員に伺いをたてる。
「…、手立てっちゅうてもなあ…」「そうそう…」「ほやなあ…」と、直助以外は思案顔になるが、煮えきらず、解決策をすぐには出せない。それもその筈で、問題の相手は、この世のものではないし、だいいち、目に見えない妖しげなシロモノなのだ。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第四十八回
「なんや、皆さん、お集りでっかいな」
満面の笑みで陽気な村川が言い放ち、五人を見回す。
「やあ、村はん。なんか用でっか?」
「いや、そないなことでもないにゃけどな…。嬶(かかあ)と喧嘩してしもてな。居辛うなって、飛び出してきた」
辺りが爆笑の渦となった。直助としては、毎度のことながら屑米を融通してもらっているという引け目もある。皆のように余り爆笑して小馬鹿には出来ない。夫婦(みょうと)喧嘩の発端などを細かに語り合っている他の連中を傍観するのみだ。やがて、皆が落ちついて、話が途切れた。直助の怪談話は途絶えたままだ。当の直助すら、どこまで話したのか、また忘れてしまっていた。
「あっ、そやそや。村川はんも聞いてえな。直さんの怪談話なんやが…」
勢一つぁんが、話を、ぶり返した。
「怪談話? なんや、面白そうやなあ」
「ちっとも面白うなんかないんやけどな。当の本人は…」
直助は村川の言動を否定して話し続ける。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第四十七回
「そんなことされる憶えもないしな。二度、三度と同(おんな)じことが起こると、これはもう幾らなんでも気色悪いがな…。ほんでもまあ、別に暮らし向きに困るようなことも起こらんよって、そのままにしといたんや。そのあとは、しばらく忘れとったんやけど、さいぜん話した幽霊らしいのが昨日の夜中にでたと…まあ、そうゆうこっちゃ」
「なるほどなあ~」
同じように得心した声が、異口同音に三人の口から洩れた。
「ちょっとは信じてもらえたかいな」
「んっ? ちょいとは、な…。そやけど、やっぱしなあ~…」
勢一つぁんは煙草を燻(くゆ)らす。鍵熊は煙草をやめたから食い気の方がもっぱらで、茶菓子の煎餅をバリバリと齧る。肉屋の河北は借り物の猫で、控えめに茶を啜るのみである。商店会長の小川文具店は、眠いのか大欠伸をしている。この瞬間は各自の性分が現出した。
突然、ガラッ! と表戸が開く音がした。
「珍しいなぁ、お客はんかいなあ」
敏江さんが暖簾を潜(くぐ)って店へ行こうとしたとき、反対に入ってきた男がいる。米屋の村川である。