黒船のペリーは、日本の庶民層が書物を好んで購入して読んでいる姿に、驚きを隠さなかったと言われる。このことからも、江戸庶民にとって文字を読み書きすることは、ごく基本的な教養だったようである。
江戸時代の識字率は当時世界一だったとは、よく言われることだが、実際に当時の欧米と比べた場合、江戸の識字率は相当に高いものがあった。
福沢諭吉も、1878(明治10)年の著作『通俗国権論』で「凡(およ)そ国の人口を平均して、字を知る者の多寡(たか)を西洋諸国と比較しなば、我日本をもって世界第一等と称するも可なり」と書いた。読み書きに関しては、むしろ欧米が遅れていたようである。
江戸時代・幕末期の識字率には各種の研究があるが、武士階級については、ほぼ100パーセントが読み書きできたと考えられている。町人ら庶民層でみた場合も、男子で49~54パーセント、女子では19~21パーセントという推定値が出されている。
江戸に限定すれば70~80パーセント、さらに江戸の中心部に限定すれば約90パーセントが読み書きできたという。
同じ時代イギリスでは、下層庶民の場合、首都のロンドンでも字を読める子どもは10パーセントに達しなかった。書ける子どもとなると微々たるものだった。19世紀前半で就学率が20~25パーセントという数字があるから、イギリスの識字率は江戸のそれに遠く及ばなかったのである。
江戸の高い識字率を支えていたのは、いうまでもなく寺子屋制度である。江戸の後期では、子どもが七、八歳くらいになると親が寺子屋を主宰する師匠のもとに入門させることが広く行われていた。
幕末期で寺子屋は千五百ほどあったという。十人程度の小規模のものから、百人規模の生徒を抱える大手までさまざまあり、親はこれらの寺子屋を選択して子どもに学ばせた。
寺子屋は、幕府が一切関知しない世界だった。官制の学校ではないので、授業内容も方法も寺子屋によって、ずいぶん違っていた。親は自分の意志で、子どもに合った寺子屋を選択して入門させた。基本はやはり、読み書きを覚えさせることで、「いろは」から手紙文、漢文などを習った。
教科書も様々にあった。手紙文の『庭訓往来』、商売用語の『商売往来』、農業用語の『百姓往来』、算術の『塵劫記』などは、全国的に使われた有名な教科書だが、寺子屋によって様々な教科書が使われ、現存するものだけでも七千種類以上の教科書がある。これだけの教科書が刊行されていたことをみても、江戸時代の教育に寄せる関心の高さがわかる。
こうした高い識字率が背景にあったからこそ、当時から続く神社のおみくじが庶民に親しまれたり、落語に出てくる熊さん、八つぁんが、トボケた味を出しながらも、当たり前のように手紙を書いたり読んだりするわけである。
読み書きができて本を読む人間の数において、日本はヨーロッパ諸国のどの国にもひけをとらない。古来より日本人は文字を習うに真に熱心であったのです。
日本は千年前の平安時代中期に、世界の文学史に残る『源氏物語』を生み出した国です。
この作者である紫式部は、当初は名もない専業主婦として作品を書き始め、のちに宮廷につかえた女性でした。
それ以前の飛鳥時代には、天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人が詠んだ歌を集めた『万葉集』もあります。
日本の国は古来より、言霊の国であり、天皇から庶民まで文字に親しみ、意思を伝え合う教養の豊かさがあったのです。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます