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天平のミケランジェロ ~ 「国民の芸術」を読む(前編)

2021年06月26日 | 歴史
(国際的なスペクタクル・大仏開眼供養)
今から1270年近く前の天平勝宝4(752)年4月9日、奈良・東大寺の廬舎那仏(るしゃなぶつ)の開眼供養が行われた。インド人の菩提僧正(ぼだいそうじょう)が16mの大仏の顔の高さあたりに据えられた高い台の上に立ち、筆を持つ。その筆から綱がおろされ、地上では聖武太上(だじょう)天皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、百官の手に握られている。

菩提僧正の筆がおもむろに大仏の眼睛(がんせい:ひとみ)を点ずると、左右それぞれ1.2mほどの両眼が燦然(さんぜん)と輝いた。大仏開眼である。それから華厳経の講義、お祝いの品々献上が行われた後、数十人からなる楽人と刀や盾を手にした舞人が登場して、「久米舞」や「盾伏舞(たてふしまい)」など日本古来からの勇壮な踊りを見せる。

その次は外国の楽舞となる。少女120人が唐の長安、洛陽の春の踊りなどを舞う。次いで高麗からきた「高麗楽」が披露され、ヴェトナム、カンボジアからの「林邑楽(りんゆうがく)」が現地から来た僧・仏哲によって演じられる。1万数千人の参列者を集めた開眼供養はまさに国際的なペイジェント(祭事)であった。

(「光明遍照」の大仏)
大仏の正式名・毘盧遮那仏は、サンスクリット語のバイローチャナから来ており、「光明遍照(こうみょうへんじょう)」という意味である。499キロの金に覆われて燦然と輝く16mもの大仏はまさに太陽の如く「生きとし生けるものことごとく栄えんことを望む(聖武天皇の大仏建立の詔)」という大御心の光を四方に発していた。

大仏は二度の大火に遭い、創建当時の姿は唯一焼け残った大仏蓮弁の線刻から窺(うかが)い知ることができるとされているが、それを見ると、現在の大仏と同様に、顔、首、肩にかけての豊かな肉付き、前方に掌を向けて施無畏印(せむいいん・畏怖を取り除いて安心させる)を示す右手の一本一本の指の関節にいたるまでの自然な動き、ゆるやかな衣服のリアルなひだ、などが素晴らしい。

唐を経由して、奈良時代の美術はペルシャやインドの影響も受けたが、そこから日本の彫刻は固有の発展を遂げて、大仏製作の段階では、もはや唐とはあまり関係のない、日本の自立した文化の結晶といえるものであった。

大仏の重量は250トン、蓮座は130トンと推定されている。世界で最も大きなブロンズ像である。インドや、中国、朝鮮の巨大な仏像はいずれも石で作られている。この時代の日本の青銅の技術は、すでに世界的なレベルにあったと言われている。

(「天平のミケランジェロ」国中連公麻呂)
大仏建立の中心となった仏師は、国中連公麻呂(くになかのむらじ・きみまろ)であると「続日本記」は記す。それによると、公麻呂は天智天皇2(663)年、百済の争乱を避けて帰化した徳卒(百済の官位)・国骨豊の孫にあたる。祖父の帰化が大仏建立よりも90年も前であるから、公麻呂の親は日本生まれだろう。さらに孫の世代ともなれば、アメリカの日系3世のようにほとんど母国の言葉も話せず、現地社会に溶け込んでいた事であろう。国中連という姓は、大和国葛城郡の国中村に住んでいたからであり、また公麻呂という名も完全な日本名である。

日本におけるヨーロッパ美術史の第一人者と言われる田中英道・東北大学大学院教授は、公麻呂をミケランジェロに匹敵すると評価し、古代ギリシャのパルテノン神殿の建築と彫刻を残したフェイディアスとともに、世界三大巨匠としている。

レオナルド・ダ・ビンチの「スフォルツァ騎馬像」の復元で中心的な役割を果たすなど、その研究で世界的な評価を得ていた田中教授が、近年は西洋研究で培った鑑識眼と学識を武器に日本美術史研究にも着手し、斬新な論考を次々と発表して、世界に発信している。今回は氏の近著「国民の芸術」を手引きに、公麻呂の作品を味わってみよう。

(不空羂索観音 ~ 力強さと豊かさ)
「不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)」立像(国宝)は東大寺法華堂(三月堂) の本尊として堂内の中央に立つ。天平19(747)年正月に公麻呂が不空羂索観音のために鉄20挺を要請している文書が残されており、また大仏と顔、首、肩の輪郭、肉付きが共通しているので、田中教授はこれを公麻呂の作と比定している。

「不空」とは心願空しからずの意、「羂索」とは猟などで用いる端に環(わ)のついた投網。観音の大慈悲の網で全ての人を救う観音である。3.62mもの堂々とした体躯(たいく)が金色に輝き、8本の手を広げた立像は、見る者に力強い安心感を与える。その一方で、繊細な手指、流麗(りゅうれい)な衣の襞(ひだ)、豪華な宝冠や後光が豊かさを感じさせる。

(日光・月光菩薩 ~ 祈りの心の深さ、静けさ)
不空羂索観音の両側に立つのが、日光・月光菩薩(国宝)。
巨大・豪華な不空羂索観音の横で、小さく静かに優美にたたずむ二つの菩薩は、見る人に安らぎを与える。

その芸術的完成度は、天平彫刻の中でも白眉(はくび)といってよい。顔のふくよかさ、神々しさ、合掌する姿の自然さは、仏像としての人間性を解脱(げだつ)しつつ、しかもなお、人間性を維持しつづける像といえる。

髪型や衣服のひだ、帯の結び目、裾の垂れ具合などに見られる写実の精密さは、不空羂索観音と同様である。両菩薩とも、静かに目を閉じて、軽く口を結んだ表情は、祈りの心の深さ、静けさを感じさせる。

[四天王 ~ 悪と戦う忿怒(ふんど)]
東大寺戒壇(かいだん)院の「四天王」像(国宝)も、頭部-身体の縦のプロポーションや、肩幅とその丸みなどが「日光・月光菩薩」像と同様な点から、田中教授は同じく公麻呂の作としている。ただし、その表情、動作は日光・月光菩薩の深い静かな祈りとは、まったく正反対である。

特に「広目天」像は、知性の象徴のように書巻を持ち、筆を握っている。眉をひそめているその顔は、文治の怒りとでもいうべき内面の怒りを発している。このような表現は、インドや中国の四天王にはみられない。上目遣いで遠くを凝視している様は、世に広まる悪を見すえているようだ。


増長天は目を大きく見開き、口を開けて、やや下向きに睨(にら)み据えている。高くあげた右手に持つ垂直の長い槍状の三叉檄(さんさげき)と対照的に、左手はやや引いた腰にあてた姿勢に、動きが感じられる。忿怒の情が姿勢にも漲(みなぎ)っているようだ。


持国天は、五角形に大きく見開いた目で間近のものを見下ろし、ヘの字に結んだ口が怒りを表している。その間近のものから邪悪な風が来るのか、兜(かぶと)からはみ出した髪が吹き上げられている。右手にもって、左足にかけた剣で今にもそれに討ちかかっていきそうである。


多聞天は目を細め、眉間にしわを寄せ、口を閉じ、右手で宝塔を高く掲げている。


いずれも薄い甲冑(かっちゅう)、逞(たくま)しい胸部とくびれた胴の鍛え抜いた男性的な肉体が忿怒の情に力感を与え、日光・月光菩薩の中性的な優美な祈りと鋭い対照をなしている。人々の幸福を願う慈悲の心と、不幸をもたらす悪や煩悩と戦う忿怒の心とは、その根本はつながっているのであろう。

---owari---
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