今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――(政宗と秀吉の対面の異説)今までの「政宗伝」では、箱根の底倉において、七人の使者に申し開きをしたのが 六月七日。秀吉が改めて政宗を諸侯の前で引見したのが、同九日とされている。しかし、家康側の、内藤清成の手になる「天正日記」では、これとはまるで異なった記事が書き残されている。政宗は、実は、九日の引見の前に . . . 本文を読む
今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――彼は眼を一つ失ったために、「親をはじめ、みんなが自分を見捨てた」と思い込んできた。が、そうではなかった。いつも脇にいて学問を教えてくれる虎哉(こさい:臨済宗妙心寺派の僧)が、きょうは人生の勉強をさせてくれた。しかも、自信をあたえてくれた。「心身の障害など、何も気にすることはありません。逆にそれが輝きを持 . . . 本文を読む
今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――人間、師となり弟子となる…それは何の奇もない行き会いのようでありながら、しかしそこには無限の生命の通路がある。伊達政宗の人生に、もしもこの虎哉宗乙(こさい そういつ:臨済宗妙心寺派の僧)の登場がなかったら、彼の生涯もなかったのではなかろうか?虎哉は、決してこの地に骨を埋める気などあってやっ . . . 本文を読む
今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――伊達政宗は、永禄十年(1567)八月三日、米沢城内において、城主伊達輝宗の第一子として生れた。この時父の輝宗は二十四歳。母は山形の城主最上義守の長女義姫で、二十歳の初産であった。この永禄十年はどんな年であったろう?日本の統一に最初の道をつけた織田信長はこの年すでに三十四歳で、当時の将軍足利義昭を擁して入 . . . 本文を読む
今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。―――――――――――――――――――――――― 父は米沢城主・伊達輝宗の子として生まれる。幼名梵天丸、元服して藤次郎政宗と称する。天正十二年(1584年)家督相続し、翌年父が二本松義継のために不慮の死をとげたのち、積極的に領土拡張に乗り出す。天正十七年(1589)芦名義広を摺上原(すりあげがはら)の戦に大敗させて会津地方を収めたのを契機に . . . 本文を読む