今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。
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(政宗と秀吉の対面の異説)
今までの「政宗伝」では、箱根の底倉において、七人の使者に申し開きをしたのが 六月七日。秀吉が改めて政宗を諸侯の前で引見したのが、同九日とされている。
しかし、家康側の、内藤清成の手になる「天正日記」では、これとはまるで異なった記事が書き残されている。
政宗は、実は、九日の引見の前に、秘かに家康を訪れ、さらに秀吉にも会っているのだ…
家康の本陣に政宗を伴っていったのは結城秀康で、秀康は、二度政宗を実父に会わせている。
その結果、三人の話がどうまとまったのか、その後、家康は、秀康と政宗伴って、秘かに秀吉のもとを訪れているのだ。
したがって、巷間に流布されている政宗と秀吉の、石垣山における初対面は、対世間向けの、文字どおり宣伝用の大芝居だったことになる。
決してあり得ないことではない。もともと、芝居がかった事の大好きな秀吉だ。大坂城での家康との対面のおりにも、この手を用いている。
天下の諸侯の居並ぶ大坂城の大広間で、わざわざ家康に自分の陣羽織を乞(こ)わせ、
「これから殿下に謀叛(むほん)などいたすものがござれば、家康、この陣羽織を一着なして陣頭に立ち、殿下のお手など断じて煩(わずら)わすものではござりませぬ」
そう大見得を切らせて悦に入っているのだ。
そんな秀吉ゆえ、九日の初対面に政宗の首根っこを杖(つえ)で叩いて、
「さても、その方は愛(う)い奴だ。若い者だがよい時分に来たもの、今少し遅く着いていたら、ここがあぶなかったぞ」
そう言って政宗を震えあがらせたことになっているが、これではあまりに秀吉好みに筋ができすぎている。
この会見で、秀吉は、政宗の眼がねに叶わなかったのだと言ってもよい。
何よりも、政宗という虎を、本陣で会見せずに、この山まで引っぱり出して、諸侯の見ている前で、杖で首を叩くという軽率な行為が許せなかった。
人には脅(おびや)かされておびえるものと、かえって闘志を掻き立てられる者とある。
予期以上に丁重に扱われていたら、まだ若い政宗なのだ。あるいは、ここで叛骨(はんこつ)をおさめることになっていたかも知れない。
それが逆になった。
(このような悪戯(あくぎ)親爺でも、権力の座にあれば態勢つけて、このように威張りくされるものなのか…)
家康の鈍重さは重苦しすぎたし、秀吉は軽薄すぎる。前田利家や浅野長政は好人物で、こんなのを欺(だま)すのはわけはない…二十四歳の政宗が、そう思い込んだのでは、
(やはり生れて来るのが遅かった……)
少年時代の嘆(なげ)きが蘇(よみがえ)るのも当然だった。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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