京都長岡京市にお住まいの友人TFさんから投稿を頂きました。
この日はお近くにある真言宗の名刹、乙訓寺にお参りに行かれたそうです。
お参りを済ませた後、このお寺の牡丹を見物されたそうです。 画像で紹介します
立派なご神木「モチノキ」(応仁の乱をも生き延びたらしい)も拝んで来たそうです。
TFさん、有難うございました。
京都乙訓寺については、当方もお参りしたことがあるのですが、不勉強だったので、ネットで検索してみました。
公式HPがありますので、こちらをクリック下さい。
その一部を下記に転載させてもらいました。
乙訓寺縁起
この地は二千年前の弥生時代から多くの人が住んでいた この景勝の地に聖徳太子は十一面観世音菩薩を本尊と
する伽藍を建立させた
この寺が即ち乙訓寺である 桓武天皇は延暦三年(784年)に長丘に遷都されたとき京内七大寺の筆頭として乙訓寺
を大増築された
この東寺の境域は、南北百間以上もあり建てられた講堂は九間に四間の大建築で難波京の大安殿と同じ規模のもので
あった 翌四年 藤原種継が春宮房の人々により暗殺されるや天皇は皇太子早良親王を当寺に幽閉された嵯峨天皇は
弘仁二年(811年)十一月九日太政官符をもって弘法大師を別当にされた 大師の残されたご事跡も多く八幡明神の
霊告をうけて合体の像を造り、また毘沙門天像を刻んでは国家の豊楽を祈られ あるいは境内に実る柑子を朝廷に
献上され また伝教大師と法論をかわされている 講堂や大師のご起居されたと考えられる単独僧坊跡が発掘調査
され出土がわら等により平安期に隆盛を極めていたことがわかっている 永禄年間(1558~1569年)信長の兵火に
より一時衰微したが 元禄六年(1693年)五代将軍綱吉は、堂宇を再建して乙訓寺法度をつくり寺領を寄せ徳川家の
祈願寺とせらる草創から一千三百有余年時に盛衰はあったが 祈願寺として今日に及んでいる 四月下旬から五月
上旬にかけて牡丹が花ひらき これに前後してつつじなども咲き陽春は花の寺と化する
乙訓寺の牡丹の始まりは昭和15年頃のことである。
牡丹が咲き誇る以前の乙訓寺は表門から本堂まで続く松の並木が美しいことで有名であった。
それらが昭和9年の室戸台風でほとんどが倒木し応仁の乱も生き延びたと伝わるモチノキ、
弘法大師お手植えの菩提樹も多大な損害を受けることになった。乙訓寺第19世海延の伯父にあたる
長谷寺第68世能化(住職)海雲全教和上が被害著しい境内をご覧になり、本尊への供花、荘厳花として
また同時に参拝者にしばしの安らぎをと念じられ、多年ご愛育の牡丹のうち2株を寄進されたのが当寺に
牡丹のある初めである。
その後、乙訓寺歴代住職らの尽力により株数も年を追って増加し今では約2000株の花が美しく境内を彩っている。
寺門の興隆に努められた諸先徳に感謝する次第である。
注意書きもHPにありました。
*お願い*
境内ではカメラの三脚の使用を禁止しています
三脚を畳んでの使用も禁止しています
牡丹には手を触れないようにお願い申し上げます