尊敬する先輩でプロカメラマンの栗田格さんの記事が掲載されましたのでご紹介します
報道写真の世界に入って今年で50年を迎える栗田格さんの集大成の写真展『やじ馬人生50年』が、日本プレスセンタービル9階の「日本記者クラブ」で開催されました。
1964年の東京オリンピックに始まり、激動の昭和を海外メディアに向けて発信してきた貴重なアーカイブです。
とりわけ第64-65代内閣総理大臣 田中角栄に始まる歴代首相のポートレートは"レンズマン"栗田格さんにしか捉えることの出来ない"真実の面魂"です。ぜひご利用ください!
栗田格氏 特別interview
【Profile】
1939年東京生まれ。当初はMGM映画社を中心に電通、J.W.トンプソン等のコマーシャル分野で活躍。1963年、NANA通信のレイ・フォーク氏との出会いをきっかけに報道写真へ転換。タイム、ニューズウイーク、フォーチュン等、主に海外メディア向けに発信。1974年以来、フランスのガンマ通信の日本代表を務め現在に至る。
K=栗田氏 A=アマナイメージズ
Q.キャリアの始まりは“報道”ではなく“コマーシャル”写真なのですね
うん、おれは運が良かったんだな。いつも人に恵まれて仕事が向こうから来るんだ。最初はMGM映画社に雇われて来日したハリウッドスターを密着取材してたんだ。当時はスターは来日すると1週間近くは滞在していたからね。映画の宣伝の仕事だけでなく、京都に旅行したり―――その間はずっと同行して撮影するんだ。羽田に到着してから羽田を発つまで、それでギャラは1,000ドル。当時、住んでいた品川には信用金庫しかなくてさ、ドルの小切手なんて見たことも無いから換金出来無いんだ。それで東京銀行に行ったら窓口の人に「飛行機ですか?船ですか?」って聴かれてね、何だろうと尋ねたら、「船なら3ヵ月後にお金が届きます。飛行機ならすぐです」って。もちろん飛行機でお願いしたよ、手数料が違うけど・・・そんな時代だよ。
そのうち、コロンビア映画、ユナイト映画からも仕事が回ってきたんだ。向こうでMGMの誰かが紹介してくれたんじゃないかな。「日本に行くならおかしな坊やがいるから、使ってやれ」てさ。ユニフランスの仕事もしたからアラン・ドロン、マーロン・ブランド、チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナー・・・ジョン・ウェイン以外、当時来日したスターはだいたい撮影したんじゃないかな。
Q.ハリウッドに行ったこともあるのですか?
Q.カメラマンを目指したきっかけを教えて頂けますか?
カメラマンになろうと思ったのは18の時かな。何でなろうと思ったのかな・・・あの頃のカメラマンは格好良かったからね。当時、杉並は火事が多くてね、藁ぶき屋根がまだ沢山あったんだ。それで火事だっ!と聞くと撮影して、都電14番で新宿に出て有楽町の朝日新聞まで持って行くんだ。「これ、さっき起きた杉並の火事の写真です」って提出すると駄賃としてフィルム1本くれるの、現金でなく。それが時々新聞に掲載されるんだ撮影・栗田格ってクレジットも入って。それでもうカメラマンの気分になっちゃったんだな。
Q.初仕事は何ですか?
それも偶然なんだ。新宿御苑の横の通りをね、カメラを首からぶら下げて俺はカメラマンだって顔して歩いてたら、向こうから来たおじさんに「あなたはカメラマンですか?」って聞かれたんだ。「ちょうど今、カメラマンを探していたのですが、撮影して頂けますか?」って。もちろん「はい、いいですよ」って答えて現場に行ったら、銀行の広報誌の取材で、後に総理になった福田赳夫さん―――当時は大蔵省の役人だったのかな、のポートレート撮影だったんだ。撮影してフィルムを渡して3000円もらったの。あれが初仕事だったな。
Q.写真を撮る際に大切にしていることを教えてください。
Q.最後に、このまるでバズーカ砲のような機材についてお聞かせ下さい。