人間には2種類いる。
死んだら死ぬ人と、死んでも生きる人。
肉体が死んだら終わりの人と、肉体が死んでも精神は行き続ける人。
To live in hearts we leave behind is not to die.
後に遺す人の中に行き続けていれば、死なない。
精神性がない人は、死んだら死ぬ人。さようなら。
精神性がある人は、死んでも生きる人。タフだ。
100年前までの人は、「死して何を遺すか」を考えていた。
世界が世俗化して、「生きているうちに幸せになる」ことばかりを考えるようになった。
でもこれは、有史以来、この100年だけの話。
有史以来数千年、人は「生きているうちに幸せになる」ことばかりを考えていなかった。
ないしは、「幸せ」の定義が今とはだいぶ違っていた。
物質的に豊かになるのが成功で幸せ、なんて考えるのは、たかだかこの100年の話。
勝海舟も、頼山陽も、西郷隆盛も、その他ほとんどの偉人は、死んでも生きることを考えていた。
- 知己を千載に待つ(勝海舟)
- 千載青史に列せん(頼山陽)
- 天を相手にする(西郷隆盛)
「死んだら死ぬ人」を私は相手にしない。
「死んでも生きようとする人」のみを私は相手にする。
「死んだら死ぬ人」は、世俗に埋もれて死後は忘れられる。
ルカ23:34「何をしているか自分で分かっていない」方たちです。
死んだら死ぬ人と同じ土俵に立たない。
哀れみと、憐れみの、上から目線で、赦してあげる。
これが生き難き世を生き抜くための智慧かもしれない。
「ハンロンの剃刀」の考えに近いですね。
Never attribute to malice that which is adequately explained by stupidity.
愚かさと無知で説明できることを、悪意のせいにしてはいけない。
悪意を持った悪人だと思うけれども、実は単に無知蒙昧なだけ。
無知蒙昧な下人に対して、ムカついてはいけない。
無知蒙昧な下人と、同じ土俵に立ってはいけない。
ルカ23:34の「自分でワケ分かってない者への赦し」は、ハンロンの剃刀に似ている。
「下らぬ者と同じ土俵に立たぬ」気位の高さが、世渡りのコツ。
吉田茂も、親から「この子は気位が高い」と言われて育てられたため、「オレって気位が高いんだな」と思い込んで育ち、それで気位の高い吉田茂が出来上がった。
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。
大将は雑兵を相手にしない。
白鶴高く飛びて群れを追わず。
死んだら死ぬ人を相手にしない。
死んだら死ぬ人と同じ土俵に立たぬ。
それが君子が持つべき気位ならむ。