助手の作とされた『巨人』(プラド美術館蔵)
先日アップしましたがピカソの青の時代の作品「岸辺の母子」は、パリで描かれた
という謎が最新の科学技術で解明されたとの記事を書きました。
同じようなケースで、スペインの宮廷画家であったゴヤ作とされていた作品「巨人」が、
実は彼の弟子が描いたということが明らかになっていました。
① 『巨人』の作者について
2009年1月、プラド美術館は、従来ゴヤの代表作とされていた『巨人』はゴヤの作ではないと結論する報告書を公表した。この作品は1931年に同美術館に寄贈されたもので、当時はゴヤについての研究が進展していなかったため、疑いなくゴヤの真筆とされていた。
しかし、ゴヤの作にしては、逃げまどう群衆や動物の筆致が粗い点などが指摘され、プラド美術館が様式、伝来等を総合的に検討した結果、ゴヤ本人ではなくその追随者の作であると結論付けられた。決め手の1つは画面左下に「AJ」というサインが発見されたことで、同じイニシャルを持つゴヤの弟子、アセンシオ・フリアが作者と見られている。
② フランシスコ・デ・ゴヤ
★ フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(スペイン語: Francisco José de Goya y Lucientes, 1746年3月30日 - 1828年4月16日)は、スペインの画家。ディエゴ・ベラスケスとともにスペイン最大の画家と謳われる。ベラスケス同様、宮廷画家として重きをなした。
★ 生涯(後半生)
1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となる。
このように、40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤは、1792年、不治の病に侵され聴力を失う。今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族(スペイン語版)』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『マドリード、1808年5月3日』、『巨人(英語版)』などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。
1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻し、翌1808年にはナポレオンの兄ジョゼフをホセ1世としてスペイン王位につけた。事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけてスペイン独立戦争のさなかにあった。
こうした動乱の時期に描かれたのが『マドリード、1808年5月3日』、『巨人』などの作品群である。1810年には版画集『戦争の惨禍』に着手している。1815年、すでに69歳に達していたゴヤは、40歳以上も年下のレオカディア・バイス(Leocadia Weiss)というドイツ系の家政婦と同棲していた(妻ホセーファはその3年ほど前に死去)。
1819年にゴヤはマドリード郊外に「聾者の家」(es:Quinta del Sordo)と通称される別荘を購入した。1820年から1823年にかけて、この「聾者の家」のサロンや食堂を飾るために描かれた14枚の壁画群が、今日「黒い絵」と通称されるものである。
当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年、78歳の時にフランスに亡命し、ボルドーに居を構えた。1826年マドリードに一時帰国し、宮廷画家の辞職を認められる。ゴヤは1828年、亡命先のボルドーにおいて82年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
現在は、マドリードのプリンシペ・ピオ駅にほど近いサン・アントーニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂(スペイン語版)、通称:ゴヤのパンテオン (Panteón de Goya) に眠っている。この聖堂の天井に描かれたフレスコ画、『聖アントニオの奇跡』もゴヤの作品である。なお、ゴヤの遺骸の頭蓋骨は失われている。亡命先の墓地に埋葬されている期間に盗掘に遭ったためだが、その犯人も目的も、その後の頭蓋骨の所在についても一切が不明のままである。
カルロス4世とその家族を描いた集団肖像画は、一見普通の宮廷肖像画に見えるが、仔細に見ると、いかにも暗愚そうなカルロス4世の風貌や、絵の中心に据えられた狡猾で底意地の悪そうな夫人の表情などには、ゴヤの精一杯の風刺が感じられる。さらに、ゴヤは背後に自身の姿まで書き込んでいる。
日本にあるゴヤの油彩画としては、東京富士美術館の『ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル』、三重県立美術館の『アルベルト・フォラステールの肖像』が挙げられる。ゴヤの版画となるともう少し多くなり、国立西洋美術館、町田市立国際版画美術館、神奈川県立近代美術館、姫路市立美術館、長崎県美術館などが所蔵し、企画展などの際に展示される。また、大塚国際美術館では、ゴヤの「聾者の家」を当時そのままの配置で再現している。