安倍元首相が、銃撃され、そして亡くなった。
お昼前、訪問先でそのことが話題になり驚いた。
夕方、駅で宣伝中に、通りがかりの方から「死亡」の報を聞いた。
なんとも言えない悔しさ、無念の想いがこみあげて、一瞬言葉を失った。
言論封殺の暴力は、絶対に許せない。
そして夜。
「悔しさ」の意味を考えた。
私は、学生時代に日本共産党に出会った。
「出会った」というより、一つの出来事がきっかけで、自ら近づいた。
当時の人間関係から、また私自身の社会に対する心情から、いわゆる「新左翼」の方にずっと近い位置にいたのだと思う。
あるときに、心情的に親近感と憧れさえ抱いていた「新左翼」の人達(その中には、個人的に親しい人たちもいた)の言動に、「人の命を奪い、ふみにじる。それは違う。絶対に間違っている」と、強く感じた。
「新左翼」集団の暴力に対置している、民青同盟と日本共産党の姿が見えた。
どんな理由があったとしても、「人が人を殺す」ことは許せない。
人は、誰でも必ず命の終わりの時を迎える。
けれど、「殺される」のではなく、生きぬいた終点であるべきだと思う。
だから戦争をなくしたい。
殺し、殺される戦争の時代の到来を何としても止めたいと思う。
安倍元首相は殺された。
「あってはならないこと」が起きた。
あえて今、ここに書いておきたいことがある。
死者は美化される。
傑出した政治家だったと、功績が称えられてる。
しかし「アベ政治」によってつくられた格差と貧困で、生きることをあきらめた人がいる。
公文書改ざんの罪を負わされ、苦しみ、自ら命をたった人がいる。
森友・加計・桜を見る会は、終わっていない問題だ。
安倍氏の死によって不問にふすことはできない。
「権力による政治の私物化」を再び許さないために、「時の総理大臣が何をしたのか?」
そのことを、安倍氏には生きて、余すところなく語ってもらわなければならなかった。
その無念さもかみしめながら、「自由と平和」を守る闘い、参議院選挙の最終日を私は闘う。
大阪選挙区で、たつみコータローの議席を勝ち取るために、比例で日本共産党の議席を増やすために、あなたのご支援を心からお願いいたします。