こんにちは! ただち恵子です

政治と社会、日々の暮らしの小さな喜び。思いつくままに綴ります。

歩いてきた道

2015-02-15 23:48:43 | つぶやき
24年前、初めての選挙の前に書いていたニュースの紙面に「歩いてきた道」と言うタイトルで、私の生い立ち、大阪に来てから議員になるまでのこと・・・など、連載で書き綴っていました。

「そこだけ読むわ」とおっしゃってくださる方がありました。人がどんなふうに生きてきたのか・・・ということは、案外、興味があることなのかもしれません。


その「連載」を下書きに、4年前の選挙の前に後援会ニュースに、同じくタイトルは「歩いてきた道」で掲載しました。

B4の両面でした。


2月発行のニュースにも、「書いたほうがいい」と言うのが、役員みなさんの意見でした。


本人は「いまさら」と思う気持ちもあり、なかなか筆(PCのキーを打つので筆は使いませんが・・・)が進みません。


でも、約束なので書いてみました。前回の半分、B5の両面に収めました。書いてみたら、これまで出会った方々への感謝の気持ちが、胸のなかにいっぱい広がり、タイトルも「出会いの喜び」としました。


ここにも、転載しておきます。

もし、よかったら読んでください。(忙しい方、興味のない方は、スルーしてください。)



出会いの喜び

政治に関わる」ということは私にとって「自分がやりたいこと」から、ずいぶん遠いものでした。
 それでも市会議員として24年間、働かせていただいている私がいるのは、支えてくださった皆さん、期待を寄せてくださった方々、困った時に日本共産党の私を頼ってくださった多くの方々との出会いがあったからでした。
 このニュースを読んでいただいている皆さんをはじめ、出会えた方々への感謝をこめて、あらためて「私の歩いてきた道」をふりかえっています。


1952年7月9日、横浜市鶴見区で、3人兄妹の末っ子として生まれました。父は隣の市に勤める公務員、母は小学校教師でした。保育所もなく、働く女性にとって社会の風が今よりずっと冷たかった時代。病気の私を家に残して「ごめんね」と言って仕事に向かう母。夕方、通勤着の上からエプロンをかけ、台所に立つ母。そんな母の姿に苦労だけではない、それ以上の喜びや誇りを感じていました。

 
青春は、ひたすら山へ

 幼いときの記憶は、病院のベッドから始まります。 4歳の時に腎炎で入院、退院してからも安静と厳しい食事制限の日々。小学生のときは、激しい運動が禁じられていたこともあり「本がともだち」でした。
 中学校時代には健康をとりもどし、ブラスバンドクラブや生徒会の活動など、いろんなことに挑戦。そして高校時代は、ひたすら山へ。勉強不足がたたって浪人しても、アルバイトで交通費を貯めては山へ行きました。


日本共産党との出会い


 北アルプスのふもと、信州松本での学生生活が始まったのは、りんごの花咲く5月。入学式が1ヶ月遅れたのは、学費値上げ反対の学生ストライキのためでした。
 当時の私は、ヘルメットをかぶった「過激派」と言われる学生達が、人生をかけて真剣に社会の矛盾に立ち向かっているのかもしれないと思っていました。けれど、あるとき思ったのです。「内ゲバと称して人の命をふみにじるところに、社会をよくする運動があるはずはない。それぞれのかけがえのない命を大切にすることこそ、『社会変革』の原点ではないか」と。
 そう思ったときに、サークル活動や自治会活動を通じて、日本共産党の仲間に出会いました。1972年5月、私は日本共産党員になりました。
20歳の春でした。
 サークル活動、学生自治会、民主青年同盟の活動の合間に、新聞配達や食堂の皿洗い、家庭教師のアルバイトに精を出しました。
 人文学部で日本史を専攻、いろんなことに興味がありすぎて、学部の勉強にはあまり熱心ではありませんでしたが、卒業論文は、太平洋戦争前夜の暗闇の中で、理性と良心の灯を掲げ続けた教師達の足跡をたどり「長野県における新興教育運動の歴史」としてまとめました。

 
大阪・泉大津へ・・・

 結婚と同時に泉大津に移り住んだのは1978年4月。教員試験を受け続けましたが、採用されず、塾の講師から始めて、自宅に「さんすう・数学教室」の看板を掲げました。わかる喜びを知り、自信を取り戻した子どもたちが堂々とした大きな字を書く。そんな子ども達の笑顔に魅せられ、3人の娘たちを産み育てながら、初めての選挙の直前まで小さな教室を続けました。
 

子育ては仲間とともに

次女が1歳のときに、同じ団地に住むおかあさんたちと一緒に、幼児クラブ「はとぽっぽ」を始めました。自転車を連ねて公園をめぐり、「砂場の砂が空っぽ」「水道やベンチ、トイレを」と市に要求、実現したことは、なつかしい思い出です。
 子ども達は、2歳から市立保育所にお世話になりました。1985年、公立保育所の保護者会連絡協議会が結成され、私も役員のひとりでした。保育料値上げストップ、保育所に看護師さんを、保育時間延長、土曜日給食の改善など、少しずつ要求が実り、皆で喜び合いました。
 1980年代の終わり、消費税導入反対の運動が大きく広がり、私は地域の「消費税に反対する会」の事務局長として、老人会長さんや商店主、無所属の議員さんなど、2百人以上が名を連ねた「意見表明」のビラを作り、配布するなど、草の根の運動が政治を動かすことも実感しました。

命育てる願いを市政に

 そんなとき、ご病気に倒れた「おおぐし議員のあとを」という、思いがけないお話がありました。36歳、末の娘が2歳でした。「この子たちが育つまち、安心して子育てできるまちにしたい。」という思いもあり、大きな不安を抱えて一歩を踏み出しました。 
38歳で初めて議会へ送っていただき6期24年。
「こんにちは ただち恵子です」と名づけたニュースは、地域限定で毎週発行の時期もありましたが、今はインターネットからの発信に重点が移っています。いずれにしても「市政の情報をいち早くお届けしたい」と思う気持ちは同じです。
 お寄せいただく相談にお応えするために、法律や制度を学び、一緒に考えてきました。制度の壁にぶつかり、情けない思いで相談者の方と一緒に泣くこともありました。その声を、直接議会に届けてきました。 「誰もが安心して暮らせるまち」をめざして、まだまだ道半ばです。
 
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