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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義 3 人を造り変える真理  

2012年02月04日 | 日記

 主は我らの義 3 真理はあなたを変える力

よく、「信仰による義」と言う言葉が使われますね。それはどういう意味でしょうか。信仰によって、私たちが義なる者になるということですね。何に対する信仰ですか? 「十字架のイエス様の死に対する信仰」、と言う人たちもいるでしょう。それはどういう意味でしょうか? 信仰によって私たちが義とされる、義なる者となるというのはどういう意味なのでしょうか。できるだけ単純に説明したいと思います。子供でも理解できる方法をとりたいと思います。
 私たちは義人ではないのです。義なる要素を私たちは持っていません。私たちは自分の中で、どんな小さな義も作り出すことはできません。それは不可能なのです。義を作り出す能力を私たちは持っておりません。
 義とはなんでしょう。神様は義なるお方ですね。イエス・キリストご自身も義なるお方です。信仰によって私たちは、神様の義を受け入れるのです。そして、イエス・キリストご自身が義なるお方でありますから、イエス・キリストが提供される義を私たちが受け入れ、心のうちに取り入れた義のうちに生きるのです。そうするときに、私たちの人生において、イエス・キリストが力を発揮することがおできになるのです。
 いろんな大事な言葉が聖書の中に見られますけれども、それらは単なる概念、知識ではないのです。み言葉というのは、生きた力であります。『お祈り』という時に、それはただ単に手を組んで何か神様に語るということでしょうか。それは単なる概念にすぎません。
 バビロンの教育者たちは、人類にそのような概念を教えてきました。しかし、真理というのは単なる情報ではありません。真理は力なのです。では、お祈りとはなんでしょうか? お祈りとは、私たちと神様の関係そのものなのです。私たちが神様とつながっている時、何かが起こります。何かを受けるのです。私たちは変えられます。自分自身を神様にささげます。

主は我らの義 2 あなたを造り変える福音の力

2012年02月04日 | 日記
  ひまわりさんの体験

私は昔から何にでも興味を持ち、忙しく行動するのが好きでした。ところが、結婚して3人の子育て中、その私も、忙しさにネを上げ、心の中では「何で自分だけがこんなに忙しいのだろう」と、不平不満がたまっていきました。たとえば、家族でピクニックに行くのですが、朝早く起きてお弁当を作ったり、荷物の準備をするのは結局私です。帰ってくれば、ゆっくりする間もなく、持って行った荷物の後片付け、夕食の準備、汚れたものの洗濯、お風呂の準備、朝できなかった部屋の掃除と、休む間もなく夜寝るまで大忙しです。夫や子供たちはのんびりテレビを見ているのに、何で私ばかり・・・と、そのような不平、不満、つぶやきの心が、いつも心にありました。その不満やイライラの心は、微妙に、夫や子供たちに反映され、家族の心は蝕まれていったのです。そして、子供たちが反抗期を迎えるころになると、子供たちの心は私から離れていき、やがて、家族はバラバラ、家庭崩壊まで行ってしまいました。
先日、その昔のイライラの心が、突然、私の中に起きてきました。はっきりした原因は今でもわからないのですが、自分の体調不良や、仕事の忙しさなどがあったのかもしれません。なぜか知りませんが、今まで楽しく、感謝していたことが、「働く主婦は大変だわ、仕事は完全にこなし、家に帰れば家事を全部こなさなければならないなんて、絶対不公平だわ」という、不平、不満の心に変わってしまったのです。
「これは昔の家庭崩壊の心だ、大変だ。でもどうすることもできない」。そんな時、デビット・カン先生の講演「主は我らの義」を思い出し、先生の教えられたことを実行してみました。それは私にとっては勇気のいることでしたが、実行すると、あんなに次々に湧き上がっていた、不平、不満の心がなくなり、感謝の思いに変わったのです。これは、本当に不思議な経験でした。
このカン先生の、心を変えるメッセージの内容は、「主は我らの義」の後半でご紹介します。楽しみにお待ちください。


  主は我らの義 2
真理をただ知的に理解しているだけで、真理に生きることをしないなら、ただ真理の知識だけを持っていて実践しないのなら、そのことによって、真理を破壊してしまっているのです。
さきほど、この世界の人たちは四つのグループに分けることができると言いました。神様の救いという観点から見て、ですね。
第1のグループは、名目的アドベンチスト、名目的再臨信徒です。名目上は再臨信徒なのですね。自称アドベンチストということもできます。彼らはSDA教会の説く真理を信じています。しかし、真理に生きていないわけです。
第2番目のグループは、SDA内の「残りの人々」と言われる人たちです。彼らは、神の戒めを守ります。イエスの証を持っています。イエスの証を持っているというのは、どういう意味でしょうか。イエス様を受け入れて、イエス様の証を受ける時にそれが、私たちの心の中で生きた力となって働くわけです。 『皆さん、ついてきていますか? 単純な概念なのですが、皆さんぜひ理解してください』。     よく、「私はイエス様を私の個人的救い主として受け入れます」と言います。では、心にイエス様を受け入れるとはどういうことですか。イエス様のみ言葉、イエス様の教えを理解して受け入れる、同意する、ということがイエス様を心に受け入れたということになるのでしょうか。「イエス様が私の心の中に生きている」と言ったとします。そういった状態はどのようにして起こるのでしょうか。イエス様をどのようにして心に受け入れるのでしょうか。私たち多くのクリスチャンが、イエス様の言葉に同意して受け入れるならば、イエス様を受け入れたと考えています。それは、本当ではないのです。全く真理からかけ離れています。
 では、私たちは、どのようにしてイエス様を受け入れるのでしょうか。イエス様の条件を受け入れなければなりません。戒めを受け入れなければなりません。それに従って生きなければなりません。そうすることによって、私たちはイエス様を受け入れたということができるのです。多くのクリスチャンは、イエス様の教えを、ただ、知的に同意して受け入れているにすぎません。そして、心も、生活も、人生も、すべてを捧げることもなく、ただ自分の都合のいい時だけその教えに従おうとしているのです。そういった、自分の好みというものが優先されてしまうと、妥協ということが起こってしまいます。
 イエス様を個人的救い主として受け入れるとは、私たちの人生の主として、王様として受け入れるということなのです。