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ひまわりさんの体験 その8
看護の仕事をしていると、すごくストレスがたまることがあります。
そんな時はたいてい、家に帰って主人に話していました。
元牧師の主人は、いつも私の愚痴を聞いてくれてアドバイスをしてくれます。
今日も、すごくストレスになることが起き、この気持ちを誰かにぶちまけないと収まらないという気分でした。
でもその時、聖句に、「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。
必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい」(エペソ4:29)とあるのを思い出しました。
夫であっても、こんな私の愚痴を聞かされたらいやだろうと思いました。
そこで、祈りながら、悪い言葉を出さないように気を付けていましたら、話すことは収まりました。
しかし、心には平安はなく、我慢しているだけという状態でした。
神様の恵み、心の平安は、謙遜な心に宿ると教えられていますから(ヤコブ4:6)、謙遜になる必要があると思いました。
どうしたら謙遜になれるか、み言葉には、「へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい」(ピリピ2:3)とあります。
「ああそうだ、この聖句の通りに、自分は最低のものだったんだ」と思ったら、平安な心になりました。
キリストの義が私のうちに確立される
ある教会員が私のところに来て、「カン先生、私の家内はとても敬虔な人間なんですよ。
素晴らしいクリスチャンです。
私はまだそういうものにはなっていないんですが、私は彼女をきちんと支えて、助けているので、
彼女が天国に行く時、私は彼女のスカートの裾につかまっているだけでいいと思います。私は彼女を助けていますから。
彼女に親切にしていて、厚意的ですから。神様はその事をよく理解してくださると思います」。
ところが、この証の書によりますと、誰も自分の義で他の人を救うことはできないとあります。
これは本当に衝撃的な言葉だと思います。自分たちの義によって、自分の命を救いうるのみであると、エゼキエルの言葉にあります。
ここには、あなた自身の義によって、私自身の義によってとあります。
覚えていただきたいのは、ここで、イエス・キリストの義によってと書かれてはいないことです。
ちょっとおかしいのではないでしょうか。イエス・キリストの義が私の義となってくださるということではなかったでしょうか。
ですから、多くのセブンスデーの神学者でさえ、この引用文を読んで、これは律法主義だというわけです。
しかしここに描かれていることは、恩恵期間が終了した後の事なのです。
その時には、イエス・キリストの義が私達をおおってくださることはなくなります。
「あなたの義」「私の義」なんです。それはどういうことかと言いますと、心のうちにイエス様の義をたえず求め、受け入れてきたからなのです。
そうすることによって、その経験のうちに私たちは印されるわけです。
真理に深く根づいていくわけです。そうすることによって、私たちは動かされることがなくなります。
もう、長い時を経て、一貫して得られた経験によって、それが確立されていくんですね。瞬時の経験ではありません。
ですから今、その経験を持つことが必要なのです。
恩恵期間が終了してからは、私たちが自分で立って、全宇宙に証をする時であります。
私たちの生き方を通して、神様が救いの力を証しなさいます。