ひまわりさんの体験 その3
信仰による義と言うのは、イエス様が私の代わりに義となって下さったので、私はそれを信じて義とされ、神様に受け入れていただいたのだと思っていました。
それは事実で、ありがたいという気持ちはありましたが、何か、心からの救いの喜びではありませんでした。
私の心は変わっていませんでした。それでこんな自分じゃいけないという思いと、
こんな弱い私をイエス様は救って下さったんだと思って自分を慰めていました。
その後、自分が最悪の人間だという経験にまで導かれたとき、神様に対する不信、不安は無くなりましたが、
イライラや批判、つぶやきの心は、そのままで、時間がたってそれがおさまるまで待つしかありませんでした。
デビット・カン先生の講演を聞いて、勝利の方法がわかってきました。
100パーセントイエス様によって勝利させていただけるということが少しずつ体験させられています。
イエス様によって、神様に受け入れていただいたというだけでなく、イエス様が私の品性そのもの、
私の義になって下さるということがわかり、それがすごく感謝になってきました。
天国へ導く名とは デビット・カン
<義を理解するためには、罪とは何かということを理解しなければなりません。
ヨハネ第1の手紙3:4を見ると、「罪は不法である」とあります。
まず覚えておきたいことは、義というのは罪の正反対の言葉です。
義とは、義なるものになっていることです。では、罪とはなんでしょうか。
罪とは不法である、つまり、律法を犯すことであると書かれているのです。
次にローマ3:20を見ます。「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである」とあります。
今、いろんな言葉の定義を行っているんですけれども、義とは何ですか。神の戒めを守り行うことです。罪とは何ですか。
神の律法を破ることです。犯すことです。しかし、パウロは、神の前で義とされる人はだれもいない、と言っています。
神の律法を行うことによっては、だれも神の前に義とされないと言っています。
ある個所では、義とは神の律法を守ることだと言い、一方では神の律法を守ることではだれも義とされないと言っています。
どういうことでしょうか? このような聖句を、どのようにして、きちんとまとめて理解できるのでしょうか。混乱してきましたか?
律法を行うことでは、誰も義とされないとあります。エレミヤ23:6に、このように書かれています。
「その日ユダは救いを得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」
「主はわれわれの正義」という言葉があります。救われるものたちは、このように呼ばれるようになるんです。
主はわれわれの正義と。私たちが救われて天国に行くときに、真珠の門を通っていく時、新しい名前で呼ばれるようになるんです。
その名前とは、「主はわれわれの正義」という名前であります。宇宙の誰かが私に尋ねたとします。
「どうやってここに来ることができたのですか」。次のように答えるでしょう。
「主なる神が私たちの義であります」。主とはエホバのことですね。エホバなる、創造主なる神が私の義となられました。
そうするときに、私達が天国へ行くのをとどめるものはいなくなるわけです。
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