ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その2)

2007年04月03日 | 随筆

 眼鏡店舗の一角を使った簡易画廊では手狭となり、店舗の二階を借り増して、小品なら30点は飾れる画廊に改装した。そもそも、眼鏡店舗は彼の父親が借りてくれているもので、父親からすれば息子の自立を促すために眼鏡店をもたせたのであって、眼鏡の方はそっちのけで一銭にもならない画廊にはまってしまい、その上、勝手に二階に画廊を設け、その家賃まで払わされるのでは如何したものかと思ったに違いない。
 父親は息子に言った。
「見るところお前は大変良い友人に恵まれている。人徳があって例え商売に失敗しても必ず他人が助けてくれる。これからは一人でやりなさい」
 煽てられたようだが、(父親が本店経営なので)本支店勘定の打ち切り、経済封鎖の宣告を受けたわけです。30歳半ばにあった彼が自立できていなかったことについては、どうしても話しておかなければならないことがある。
 彼は幼少の頃、脊椎カリエスを患った。肺が侵され、更に骨に。熱と膿みとの戦い。ペニシリンの出現で命拾いする。しかし肺は片肺となり亀背となった。今70歳を超えているが、「こんなに生きるとは思わなかった」と漏らすことがある。
私はこの病の体験が彼の人生観を常人とは違ったものにしたと思っている。
 父親はなんとかこの子を自分の力で生きていけるよう考え出したのが眼鏡技術を身に付けさせてることだった。ところが、読書、作文、絵画、登山が好きな青年には眼鏡の商売はなさねばならぬこととは思いながらも熱が入らなかったのではないだろうか。
 以後、彼は美術の世界に入っていく。もちろん、画廊は一日1000円の光熱費しか取らないので儲からない。むしろ出費の方がはるかに多い。こんな計算は誰にでもできること。いったい彼は何を見つめていたのだろうか。

(この文章の一部は1990年西日本新聞連載の「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文を引用しています)