眼鏡店の一角に最初に掛けた千原稔さん(現国画会会員)の作品「砂丘」は、からすが小魚の骨をくわえて、じっとあたりを睥睨(へいげい)している。戦中派の慢性的飢餓意識と世紀末の黙示録をみていうようだったと彼(げってんさん)は回顧している。絵のことが分かる分からないにかかわらず、この絵の存在感は、きっと誰の心にもにも残像となったことでしょう。
「お金は頂きません。自由に画廊を使って下さい・・・」こんなフレーズに画家たちはきっと目の色を変えて押し寄せると思いきや、その後の申し込みは見事に皆無。地方の芸術家はシャイなうえに個展と言う手段で自己を主張することに全く不慣れだった時代です。
おこがましくも貸し画廊と名乗りを上げて、借り手が無いとは情けなや。げってん気質がむくっと顔を持ち上げ始めます。彼は早速芸術家達のアトリエ訪問を始めます。作品の搬入搬出をはじめ、額縁を持たない画家にはそれぞれの準備をして、看板から案内状の印刷・発送まですべては画廊の負担です。
切り口は学校にありました。
彼は高校時代、中島継次郎先生に美術指導を受けていました。その同じ先生に指導を受けていた彼の大先輩に福田安敏先生がいます。福田先生は東京美術学校(現東京芸大)彫刻科を卒業、二科展で特選を受賞するほどでしたが、時代は応召に飢餓を余儀なくし、教鞭を生業とすることは止むを得ないことでした。彼が出会ったときの福田先生は、市の文化財保護審議会委員や絵画同好会を主宰している八十路に近い無欲恬淡な先輩でした。彼はこの先輩を勝手に自分の画廊顧問と決めました。
(この文章の一部は、1990年西日本新聞連載「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文を引用しています)
「お金は頂きません。自由に画廊を使って下さい・・・」こんなフレーズに画家たちはきっと目の色を変えて押し寄せると思いきや、その後の申し込みは見事に皆無。地方の芸術家はシャイなうえに個展と言う手段で自己を主張することに全く不慣れだった時代です。
おこがましくも貸し画廊と名乗りを上げて、借り手が無いとは情けなや。げってん気質がむくっと顔を持ち上げ始めます。彼は早速芸術家達のアトリエ訪問を始めます。作品の搬入搬出をはじめ、額縁を持たない画家にはそれぞれの準備をして、看板から案内状の印刷・発送まですべては画廊の負担です。
切り口は学校にありました。
彼は高校時代、中島継次郎先生に美術指導を受けていました。その同じ先生に指導を受けていた彼の大先輩に福田安敏先生がいます。福田先生は東京美術学校(現東京芸大)彫刻科を卒業、二科展で特選を受賞するほどでしたが、時代は応召に飢餓を余儀なくし、教鞭を生業とすることは止むを得ないことでした。彼が出会ったときの福田先生は、市の文化財保護審議会委員や絵画同好会を主宰している八十路に近い無欲恬淡な先輩でした。彼はこの先輩を勝手に自分の画廊顧問と決めました。
(この文章の一部は、1990年西日本新聞連載「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文を引用しています)