ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その31)-40年ぶりの対面-

2007年09月01日 | 随筆
 光安は「自画像」を添えた遺族捜しの記事掲載を新聞各社に依頼しました。西日本新聞社はこれに応え市民版に大きく取上げてくれました。
 「先輩画家・渡辺武比古先生の遺族を捜して」
 「自画像など手がかりに老教授・福田さんが執念の遺作展」
 「21日から最後の望み託して開く」
などの活字が眼に飛びこんでくる紙面4分の1を割いた記事でした。

 展覧会の初日は朝から誰も訪れる人がありません。それでも光安は一階の眼鏡店と二階の画廊とを行ったり来たりで落ち着きません。
 夕刻、画廊の片隅に二人の子供を連れた若夫婦が遠慮がちに座っていました。やがて若夫婦は階段を下りて行きました。光安もすぐあとを降りていきます。降りきったところで男の子が
 「オシッコ」といって母親を見上げます。光安は眼鏡店の店員に告げて、男の子は手を引かれてお手洗いへ。
父親は既に外に出ていましたが、残っていた母親が光安に声をかけました。
 「何か手がかりでも?」
 「いや、それが全然」と首をふる光安。
 「あのー、主人が自画像の方の甥ですの。新聞記事を見て飛んできました。」
パーっと光安の顔が赤らみました。
急転直下の展開で、なんとその日の夜に渡辺先生の奥様に電話がつながるところまで漕ぎ着けたのです。

渡辺先生の奥様である田鶴子さんは埼玉県にお住まいで健在でした。やっと連絡のとれた電話の向こうの田鶴子さんの声は途切れ途切れで震えています。
 「夫の遺作を・・・そんなに・・・大切に・・・ぜひ遺作展の会期中・・・訪ねます。」
 田鶴子さんは夫に逝かれたあと、両親のいる東京に帰り、女手一つ、幼い子供5人を抱えての苦労。少なくとも1937年(昭和12年)からの10年間は全ての国民がどん底を味わったわけですが、そのなかで田鶴子さんは見事に5人の子を育て上げました。子供達にも連絡がつき、仕事で手が離せない次男を除いた遺族全員が4日目の展覧会会場に集いました。
 午後3時過ぎ、会場で顔を合わせた福田先生と田鶴子さんは、向かい合ったきりしばしの沈黙。福田先生が口を開きました。
 「しばらくでした。念願がかないました。肩の荷が下りた思いです。」
 「りっぱに保存していただいて・・・」と田鶴子さんは絶句。近寄って握手しながら、田鶴子さんは言葉を続けます。
 「九州の人々の人情のおかげです。母子だけで生きてきた40年間の苦労が吹っ飛びました」
歳をとっていないあの時のままの夫に40年ぶりに対面した田鶴子さんら家族と福田先生との話は、しばし弾み続きました。
 北九州市立美術館からは
 「郷土の画家の作品として、一点でいいから寄贈してください。永久保存したい」 と申し入れがあり、母子はこれ以上の光栄はないと、昭和4年作の「台北風景」を寄贈しました。
 末席でこの光景を見ていた光安は、今日まで続けてきた画廊の苦労を忘れました。