森三美(もりみよし1872~1913年)は久留米市日吉町の生まれ。父は商家の番頭だった。絵を学ぶため、明治20年(15歳)に京都府立画学校に入学。近代洋画の開拓者の一人であった小山三造に洋画技法を学んで同25年に帰郷。27年には久留米高等小図画教師となるが、帰郷の年に開いた画熟から多くの有名画家を輩出した指導者である。
画廊主のげってんこと光安鐵男と森三美がどこでどう繋がるのか不思議に思って、私は取材のような調子で尋ねてみました。
市立病院内の薬局長をしている森正美さんがいて、その息子とは若松高校で一級下。学校を出たばかりの光安は若いお医者さんや薬剤師さん、レントゲンの先生達に可愛がられてよく病院に遊びに行っていました。光安はマージャンが得意であることは本稿(その5)でお話した通りですが、その薬局の片隅でまるでお昼休みの将棋でも始めるようにマージャンが始まったのです。レントゲン技師長も顔を出します。やがて、病院の管理者の耳に入り、不謹慎だと咎められますが、待ってましたとばかり技師長が従業者を代表して休憩室やちょっとした娯楽の施設がないことを逆に咎めます。出来上がった「和楽室」は雀荘になってしまいます。
あるとき、薬剤師の森正美さんがこんなことを言い始めました。
「うちの父の家に青木繁が居候をしていた頃、母が行水しているところを青木繁は夢中でその後姿をスケッチしていたらしんだ」
「青木繁ってあの久留米出身の画家のことか」
「そうなんだ」
「それで」
「母はふっと視線を感じたらしく、それが見つかってしまってな。怒った母は青木繁に水をぶっかけ、それでも治まらなくてその時の素描を全部取上げ、ずたずたに引き裂いて追い出したんだ。青木繁は父の着物を着たまま出て行ったって話だ」
「そのお父さんと青木繁との関係は?」
「父の名は三美、森三美と言うんだ。青木繁は父の画塾にきていた弟子の一人だった」
話は面白くなっていきます。
戦後、森三美さんの仏前に坂本繁二郎が杖をつきながらお参りに来た話。青木繁の名画「二人の少女」は正美さんの姉たちがモデルだという話。どんどん話は展開して行きます。
森三美の妻、冨美さん(1964没)は三美の死後、実家の折尾に移り住み、学校の先生をしながら正美さんの姉四人と正美さんを育てます。森正美さんは熊本薬専を卒業してのち修多羅に住み、薬剤師として身を立て、今は薬局長の後継者です。しかし、 正美さんは光安に
「うちには親父の絵はない」
と言っていましたので話は話だけに留まっていました。
森正美先生は、その後、薬局長として勤め上げたのち、1978年脳出血で急逝しました。うかつにも訃報を三日後に聞いた光安は奥さんの与志枝さんにお詫びをしてお参りをしました。
話は絵のことになりました。
画廊主のげってんこと光安鐵男と森三美がどこでどう繋がるのか不思議に思って、私は取材のような調子で尋ねてみました。
市立病院内の薬局長をしている森正美さんがいて、その息子とは若松高校で一級下。学校を出たばかりの光安は若いお医者さんや薬剤師さん、レントゲンの先生達に可愛がられてよく病院に遊びに行っていました。光安はマージャンが得意であることは本稿(その5)でお話した通りですが、その薬局の片隅でまるでお昼休みの将棋でも始めるようにマージャンが始まったのです。レントゲン技師長も顔を出します。やがて、病院の管理者の耳に入り、不謹慎だと咎められますが、待ってましたとばかり技師長が従業者を代表して休憩室やちょっとした娯楽の施設がないことを逆に咎めます。出来上がった「和楽室」は雀荘になってしまいます。
あるとき、薬剤師の森正美さんがこんなことを言い始めました。
「うちの父の家に青木繁が居候をしていた頃、母が行水しているところを青木繁は夢中でその後姿をスケッチしていたらしんだ」
「青木繁ってあの久留米出身の画家のことか」
「そうなんだ」
「それで」
「母はふっと視線を感じたらしく、それが見つかってしまってな。怒った母は青木繁に水をぶっかけ、それでも治まらなくてその時の素描を全部取上げ、ずたずたに引き裂いて追い出したんだ。青木繁は父の着物を着たまま出て行ったって話だ」
「そのお父さんと青木繁との関係は?」
「父の名は三美、森三美と言うんだ。青木繁は父の画塾にきていた弟子の一人だった」
話は面白くなっていきます。
戦後、森三美さんの仏前に坂本繁二郎が杖をつきながらお参りに来た話。青木繁の名画「二人の少女」は正美さんの姉たちがモデルだという話。どんどん話は展開して行きます。
森三美の妻、冨美さん(1964没)は三美の死後、実家の折尾に移り住み、学校の先生をしながら正美さんの姉四人と正美さんを育てます。森正美さんは熊本薬専を卒業してのち修多羅に住み、薬剤師として身を立て、今は薬局長の後継者です。しかし、 正美さんは光安に
「うちには親父の絵はない」
と言っていましたので話は話だけに留まっていました。
森正美先生は、その後、薬局長として勤め上げたのち、1978年脳出血で急逝しました。うかつにも訃報を三日後に聞いた光安は奥さんの与志枝さんにお詫びをしてお参りをしました。
話は絵のことになりました。