2月29日

日々の思いつき及び読書の感想

読書 加藤周一著 科学と文学『加藤周一セレクション1』(平凡社ライブラリー)

2010-04-22 00:39:28 | 読書
(昨年書いたものを再編集)

科学的な考えが社会に普及してきた結果、対象物の「個別性」を「注目」しなくなり「無視」するようになった(45頁)。その一方、「具体的な全体」が「次第に見失われ」るようになるだろう(46頁)。
知的フェチズムというような現象のことだと思います。雑学ブームの一例でしょう。雑学においては、各知識間のつながりがない。知識というよりは、単なる情報と呼んだ方が正しいかもしれない。

「細分化された知識は、現実の全体像をあたえない」から、そのような知識が豊富で「考える能力の弱い人間」は「現状適応主義に傾く。」(203頁)
受験戦争で生み出される大量の学生は、豊富な知識を持つが考える力は弱いから、自分の置かれた環境を変えようとはせずに、それに適応しようとするから、保守的傾向をもつということになるだろう。

科学の専門化が進んだ結果、科学者と一般人との「対話」がない。「これは危険な傾向」である(75頁)。
科学者が科学に集中するほど、「人間としての感情生活」が貧しくなる問題が生じる(77頁)。
前者は、戦争中に大量殺戮兵器の開発に携わった科学者が一例となるだろうか。また、後者に関しては、なぜか、オウム真理教で化学兵器の開発をしていた、元大学院院生のことを思い浮かべてしまう。

科学の方法を政治問題にあてはめていくと、情報不足のため、大抵の政治現象に対して、科学的な立場からは「判断の停止」の状態になる。結果、同停止は「現状肯定」につながる(79~80頁)。
現状を分析できないことにより、現状を肯定も否定もしないという結果をもたらすが、現実的には、現状を否定しないということが消極的な現状肯定的な効果を生ずることになってしまうということだ。


「日本文学は、決して日本語文学のみではなかった。」(179頁)


「過去を踏まえずに、未来の文化の代案を提出することはできないだろう。」(205頁)
この言葉の正しさは、戦後の日中や日韓の関係の現在の状態によって証明されている。また、国内関係である沖縄とヤマトンチューとの関係もその正しさを証明している。


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