マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

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三河一向一揆

2019-05-16 21:23:55 | 短編小説(歴史含む)
足利義政の跡継ぎ争いに起きた応仁の乱。
細川勝元と山名宗全を中心に、東軍西軍に分かれ抗争し・・・・・
各地の守護大名が分裂した。

11年間の争いで荒廃したがなんとか幕府の権威は地に堕ちずなんとか維持できたが・・・
細川政元が起こした明応の政変により、完全に幕府の権威は地に堕ちて・・・

強きものが正義、負けた者は悪の時代・・・
戦国時代が始まった。

守護大名を滅ぼし、戦国大名になるもの
守護大名から戦国大名になるもの
兄や本家筋を滅ぼして戦国大名になるもの・・・

数多くの個性的な武将達が戦乱の世を終わらせるべく勢力拡大に励み・・
寺院勢力が独立的行動を取るなど・・

世は混沌に陥ったばかりか・・・

遠い世界より欧州諸国の影迫り・・・

前降りは置いておいて

今回は

そんな不安な戦乱な世を完全に終わらせた男。
徳川三河守源朝臣岡崎三郎家康のとある事件を紹介したいと思う

毛利良勝「今川義元覚悟!」
織田信長の家臣毛利良勝

今川義元「がぁ・・・・このワシが・・・こんな所で・・・・・破れるのは・・・尾張のうつけ・・・恐るべし・・・」
駿河国守護大名今川義元

グジュッ

毛利良勝「今川義元の首、織田家家臣毛利新助良勝が討ち取ったり!」

1560年(永禄3年)

尾張国桶狭間にて駿河・遠江の戦国大名今川義元が織田信長に敗れ戦死した。
尾張の国を統一し、尾張の国を纏りきらず僅か5000人しか集まらず・・
25000万人今川義元を撃ち破った報は各地を驚かした。

今川義元に従っていた松平元康はこの混乱の隙をつき独立。
義元の後を継いだ今川氏真と対立する。

その手始めに藤波畷の戦いで東条吉良氏を破り・・・
着実と軍事力を増強。

どんどん今川勢力を倒し、勢力を拡大。

氏真は同盟関係にあった武田氏との関係悪化による政情不安
義元戦死による混乱により、家康の勢力躍進を止める事はできなかった。

1562年に織田信長との清洲同盟が成立。
西側の安全を確保した元康は改名し松平家康と名乗る。

このまま順風満帆に今川領土への確保へ乗り出す家康。

しかし

そんな家康にある危機が迫っていた。

【1563年三河国岡崎城】

家康は妻の瀬名姫と嫡男信康と娘亀姫を異父弟の康俊と捕らえた鵜殿氏長・氏次兄弟を交換し引き戻していた。

その間にも家康はどんどん勢力を拡大し、今川氏と戦う準備を行い・・・
戦国大名への道を突き進んでいた。

松平家康「康俊には悪いことをしてしまったが、瀬名と竹千代、亀を助け出せたのは幸いだな。」
安祥松平家当主.松平家康

鳥居忠吉「後は今川への侵攻ですな。」
松平家の老臣鳥居忠吉

松平家康「そうじゃ、今・・・今川は混乱している、その隙を突いて勢力を拡大したい。」

家族を取り戻した家康は各地の国人勢力と今川勢力を倒し・・・
三河統一の後、今川の領土の遠江侵攻を考えており・・・
早めに三河国内統一を果たしたいと思っていた。

しかし・・・・

鳥居忠吉「しかし本證寺の空誓らが心配ですな。」

松平家康「それだけではない、桜井や大草らの敵対勢力がおる。」

今川との戦いの前の脅威、三河内部の敵対勢力。

当時の家康は今川だけが敵ではなかった。
本證寺、本宗寺などの本願寺勢力、同族である桜井松平氏、大草松平氏。
吉良氏、荒川氏などが家康に対し敵対姿勢をとっていた。

特に空誓が率いる本證寺は厄介だ。
なんせあの本願寺勢力だ!

加賀では富樫氏を倒したり、各地で一向一揆を起こして現地大名を苦しめている。
事実、本願寺は織田信長と長きに渡って苦しめているし。
長島では信長の兄信広を始め、多くの一族が殺されている。

まだ21歳の若武者である家康もこの脅威を認識している。

今川と戦う前に寺院勢力が歯向かったらと・・・・

そんな家康の不安はこの直後、現実のものになる。

本多忠勝「殿、一大事でござる。」
松平家家臣本多忠勝

松平家康「何事だ!?」

本多忠勝「本證寺が激を飛ばし、一揆が発生・・・一度降した吉良氏や小笠原氏が決起し我が家臣が一揆側へ付きました。」

松平家康「なんじゃと!?」

本證寺が決起し激を飛ばし、一揆を起こさせたばかりか反家康勢力が決起した。
それだけではなく、家康に忠誠を誓っていた家臣が一揆側へついた。

その報告を聞いた家康は顔を赤くしながら、激怒と焦りが混ざった感情に襲われた。

とんでもない事態になってしまった。
いや最悪な事態になってしまったと・・・・

松平家康「しかし本多家は一向宗、忠勝はどうする?」

本多忠勝「それがしは殿と共にあります、改宗し忠誠を誓いまする。」

松平家康「忠勝、よくぞ申した。」

家康は一向宗を信じている忠勝に忠誠を確認するが・・・
忠勝は家康に忠誠を誓うと宣言、家康に安心させた。

事実・・・・

本多家は一向宗を信仰する者が多く・・・
本多正信と正信兄弟がついたが・・・・
本多忠勝を始め本多忠真、本多重次らは改宗し家康についた。

同じ事情に・・・
同じ一向派であるかつ総代の石川家では・・
石川康正が一揆派につき、嫡男の石川数正と弟の家成が改宗するなど・・・
各家康の家臣の一家が分裂した。

内藤信成「兄上。参上しました。」
松平家臣で松平広忠の落胤、内藤信成

内藤家長「家長でござる。」
松平家臣、内藤家長

松平家康「よく来たな。」

内藤家長「父上が一揆側についた事を深くお詫びもうします。」

松平家康「よいよい」

続々と家康側に戦力が結集する。

家康側についたのはおば婿の酒井忠次、同族の松平伊忠ら忠臣達。
寺院は一向派と仲が悪い真宗高田派の桑子明眼寺・菅生満性寺らがついた。

この中には今回初陣を果たし後の徳川四天王の一人榊原康政や・・・
米津常春、甥を助けるために出撃した水野信元とその配下高木清秀・・
舅と戦う覚悟の内藤正成、大久保忠世・・・
酒井忠尚の家臣であったが、離反し家康についた大須賀康高。
一族の松平信重らが結集した。

一方
一揆側には忠臣の忠吉の4男の鳥居忠広や数多くの松平家臣。
三河の今川残党、降した吉良義昭・荒川義広、小笠原広重ら国人。
まさに三河内戦とも言うべき構図であり・・・

中には親族同士で争うなど、地味ながら辛い構図になっていた。

松平家康「くっ家臣の大半が一揆側か、出来れば織田殿の岐阜攻めに援軍を送りたいが・・・」

この頃は織田信長の美濃攻めが始まっていた。
家康としても同盟者として援軍を送りたいが・・・
今はそんな余力がない。

下手したら今川から反撃を受ける可能性がある。
今は全力で鎮圧するしかない・・・

松平家康「くっ信重が・・・討ち死にしたか・・・」

家康は苦戦し、一族の信重を失ってしまう。
戦いは予想以上に長期化し、鎮圧完了できたのはなんと半年後のことであり。
若き武者の家康にストレスがどんどん積み重なっていく・・・

一揆が始まってからしばらく・・・上和田の戦場に家康は出陣した。
戦は激戦を極め、家康の兜に鉄砲二発被弾する程の激戦を極めた。

二度の被弾は危うく家康討ち死の危機であり、流石の家康も冷や汗をかいた。

戦闘が終わり、戦後処理を行うと処理していた男がある事に気がつく。

戦場で敵の遺体から見つかった63本の弓矢に名前が書いてあった。

「これは凄い武将、見事なり。殿に弓矢と共に書状を送ろう。」

男は弓矢を綺麗しに書状と共に家康に送った。

書状と弓矢を受け取った家康は驚き、弓矢の持ち主を呼び出した。

柴田政忠「柴田孫七郎参上しました。」
松平家家臣.柴田政忠

弓矢の持ち主は柴田政忠。
改宗してまで家康に従った人物で、弓矢の名手であり槍働きで活躍していた。

家康はニコニコしながら・・・・

松平家康「此度の戦はお見事、褒美にわしの家康の康を授け七九郎康忠と名乗れ!」

柴田政忠「それがしのような者に殿の一文字を授かるとは、ありがたき幸せです。」

自分の家康の康を政忠に授け、康忠と名乗るように言った。
政忠は驚きながらも、家康に頭を下げ喜んだ。
主君から一文字をもらうのは大変名誉なことである。

深く頭を下げた政忠。

ただ・・・・

柴田政忠「“康忠”はともかく、なぜに七九郎・・・?」

新たな諱と通称をもらった政忠は通称の七九郎に不思議がった。
なんでこんな通称になるのだろうか?

不思議顔の政忠、すると家康はこう言い放った。

松平家康「かけてみよ。七と九で六十三じゃろうが、ハッハッハッ」

柴田政忠「なるほど。」

七九郎、言葉遊びで合わせて63、政忠が討ち取った敵の数が由来。
意味を知った政忠は笑いながら思った。

うちの主君は中々面白い方だと・・・・

政忠は家康に忠誠を誓い、1593年に亡くなるまで家康に尽くした。

その後

翌年

【1564年】

翌年、家康側は有利に運んだ。
一揆側にいた戸田忠次らが寝返り、家康の味方になり・・・
一揆側を追い詰めていった。

そして・・・

馬頭原合戦の戦いで家康は勝利し、一揆側と和睦した。
和睦後、夏目吉信や蜂屋貞次・渡辺守綱らの家臣が助命され復帰。
本多正信・正重兄弟は松平家から出ていき各地放浪後復帰。

酒井忠尚はしばらく抵抗したが、逃亡した。

松平忠正ら同族や反家康勢力も従属。
ひとまず安心した家康

だが・・・

松平家康「今回の一揆で分かったのは宗教の恐ろしさだ、忠誠心の強い三河武士の大半が一揆側についた。講和したとは言え、このまま放置したら今後も脅威になる。ならば脅威の目は早めに潰した方がいいな。」

宗教の恐ろしさを目の当たりにし、安心しきっておらず。
今後も放置したら、また歯向かうかもしれない。
家康は宗教の危機感を抱いてしまい、ある決断を下そうとする。

空誓「やめてくれぇぇぇぇ、和議では元に戻ると言ったではないか。何故燃やすのです?」
本證寺.空誓

内藤信成「元に戻す?元に戻しているではありませんか、野原に・・・・」

空誓「そんな・・・・」

家康は徳政令を出す救済処置を出し、本願寺派が和議に反すと反発を起こさせ。
それを口実に、徹底的に弾圧を行った。

中心となった本證寺を焼き払い・・・
その他の本願寺派の寺院に改宗を要求し、拒否したら燃やすを繰り返し。
以後19年間、三河は本願寺派禁制の地になった。

その後家康は三河国を統一・・・し徳川へ改姓。
その勢いで武田信玄と共謀し遠江を攻略し、曳馬城を本拠に移し浜松城と改めて・・
二国の大名に・・・

武田信玄と争い大敗北した三ヶ原の戦い、長篠の戦いに甲州征伐。
信長の死後の甲斐の国と信濃の国の領土化と真田氏との戦い
小牧長久手の戦い、豊臣秀吉の従属。

小田原征伐、家康の五大老。

そして天下分け目の関ヶ原の戦いの勝利

江戸幕府初代将軍に就任。
最後に大坂の陣にて豊臣氏を滅ぼし・・
家康は200年以上の天下泰平の時代を作ったのである。

苦労しながら・・・

そんな天下を取った家康にこんな話がある

徳川家康「ほう本願寺が東西に分裂とな、そうかならば一方を支援しどんどん崩れてもらう。」

すべての元凶本願寺が分裂すると・・・・家康は教如一派を支援し分裂を躍進させた。
家康の思惑どおり、本願寺は東西に分裂し・・・

東本願寺
西本願寺

に分かれるのである。

この事件はマイナーが故に知名度は低いが・・・
三ヶ原の戦い 伊賀越えと並ぶ家康三大危機に数えられている。
若き家康にとっての忘れ去られたトラウマの一つであった。
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