7日間程残務整理をした後に、故郷である島根県江津市の父母の元に復員した。
気になるのは、被爆を一緒にして行動を共にしてきた町田伍長である。無事に復員しているだろうか?手紙を出した。父親より返事が来た。
「あなたは、無事に帰られて良かったですね、私の息子は帰って来ません。遺骨も帰りません。」
「ガーン、・・・。」と頭に大きな石が落ちて来たショックである。あの時、私も死んでいれば、この様なご返事を頂くことはないだろう。余りにも、残念である。涙が出た。あの憎い一発の(原子)爆弾の野郎め。
就職せねばと整理していると、私の手を握って死んで行った〇田美〇子さんの遺髪と、名札の張ってある封筒が出て来た。しまった、海田市から美〇子さんのご両親の住所である三篠本町は、わずか三里ほどの距離である。何故、故郷に復員する時、途中で届けなかったのであろうか?我ながらぼけていて残念である。おそらく、ご両親の元には、美〇子さんは、遺体で帰っていない。永久に帰らないであろう。せめてこの遺髪と本人の名札を届け、死の前のあの言葉、埋葬してある場所を教えねばと、早々速達にて郵便を出す。そして、4日後に、再び、広島に赴く。
近所の浜田市発の国鉄急行バスにて、中国山脈を横横断して横川駅に着く。
目指す美〇子さんのご両親の住所である三篠本町1丁目は、1キロもないはず。少しは民家が残っているだろうと想像していたが、やはり一面の焼け野原であった。こんな所までこの様な惨状であるのか。一発の得体の知れない(原子)爆弾の野郎め、この辺までもなめ尽くしたのか・・・・と、ふと焼け跡整理中の方に尋ねた。
「この辺と思いますが、〇田〇夫さんのご家族の方はいらっしゃいませんか?」
「今、そこで焼き跡を片付けをしんさっている人が、〇田さん夫婦と家族の方ですよ。」
やっと尋ねて来た〇田さんの家族の方は、眼前30メートル先にいらっしゃる。ああ、美〇子さんの遺髪を届けに来て良かった。
「〇田さんですか?」
「ハイ、そうですが・・・・」
「〇田さんのお父さんですか?」と言うと、途端に眼をまん丸と開いて、私の足下から頭の上まで、驚いて家族の方総立ちで唖然として見つめるばかり。
「速達を下さった近本様ですか?」
「ハイ、近本であります。」
軍隊用語が突然私の口から出た。私が上官をしていたので、だいぶ年上と思われていたのであろうか。私は、21歳である。まだ、未成年であろうと、頭をかしげて疑っている様子である。
「近本様であんさるでしたら、私が住んでいる家まで来んさい。」と言われた。広島弁である。
可部線の踏切りを渡って15メートルもあろうか、大木で囲まれた大きな古い家に連れていかれる。その家の中には、焼け出された数世帯の家族で一杯であった。10畳ぐらいの広い座敷に迎えられた。
お互いに正座をし、おもむろに「〇代子さんは、私の部屋で亡くなられ、遺骨として帰って来られませんので、せめてもの形見として、遺髪と胸に付けられておられた名札を持参致しました。」と言って、封筒の中よりそれを取り出して、お父さんに渡した。
「〇代子、帰って来たか!」 ワッと涙々である。
〇代子さんの生前の様子、亡くなる前の最後の言葉、遺体は似の島に送ったこと、私も負傷していたので、充分な手当が出来なかったことなどをお詫びした。
「この名札は、〇代子が胸に付けていたのに間違いはありません。〇代子、よく近本様の胸に抱かれて帰って来てくれた。」「近本様、よくぞ〇代子を連れて来られました。」
「いいえ、私の当然のことをしただけです。」
〇田さんのご家族にお別れする時が来た。横川駅より長崎行きの汽車に乗った。
広島よ、色々な出来事があった。生死のことがあった。私の一生涯、決して忘れることは出来ない。
被爆でお亡くなりになられた方々、静かにお眠り下さい。
(ご愛読、ありがとうございました)
(この内容は、被爆者の方の御好意により頂きました。本人から二浪人の時に大変お世話になり、又、何度も、当時のことを聞かされました。今は、残念なことに、故人となられています。被爆関係者のとても貴重な生の内容です。)
気になるのは、被爆を一緒にして行動を共にしてきた町田伍長である。無事に復員しているだろうか?手紙を出した。父親より返事が来た。
「あなたは、無事に帰られて良かったですね、私の息子は帰って来ません。遺骨も帰りません。」
「ガーン、・・・。」と頭に大きな石が落ちて来たショックである。あの時、私も死んでいれば、この様なご返事を頂くことはないだろう。余りにも、残念である。涙が出た。あの憎い一発の(原子)爆弾の野郎め。
就職せねばと整理していると、私の手を握って死んで行った〇田美〇子さんの遺髪と、名札の張ってある封筒が出て来た。しまった、海田市から美〇子さんのご両親の住所である三篠本町は、わずか三里ほどの距離である。何故、故郷に復員する時、途中で届けなかったのであろうか?我ながらぼけていて残念である。おそらく、ご両親の元には、美〇子さんは、遺体で帰っていない。永久に帰らないであろう。せめてこの遺髪と本人の名札を届け、死の前のあの言葉、埋葬してある場所を教えねばと、早々速達にて郵便を出す。そして、4日後に、再び、広島に赴く。
近所の浜田市発の国鉄急行バスにて、中国山脈を横横断して横川駅に着く。
目指す美〇子さんのご両親の住所である三篠本町1丁目は、1キロもないはず。少しは民家が残っているだろうと想像していたが、やはり一面の焼け野原であった。こんな所までこの様な惨状であるのか。一発の得体の知れない(原子)爆弾の野郎め、この辺までもなめ尽くしたのか・・・・と、ふと焼け跡整理中の方に尋ねた。
「この辺と思いますが、〇田〇夫さんのご家族の方はいらっしゃいませんか?」
「今、そこで焼き跡を片付けをしんさっている人が、〇田さん夫婦と家族の方ですよ。」
やっと尋ねて来た〇田さんの家族の方は、眼前30メートル先にいらっしゃる。ああ、美〇子さんの遺髪を届けに来て良かった。
「〇田さんですか?」
「ハイ、そうですが・・・・」
「〇田さんのお父さんですか?」と言うと、途端に眼をまん丸と開いて、私の足下から頭の上まで、驚いて家族の方総立ちで唖然として見つめるばかり。
「速達を下さった近本様ですか?」
「ハイ、近本であります。」
軍隊用語が突然私の口から出た。私が上官をしていたので、だいぶ年上と思われていたのであろうか。私は、21歳である。まだ、未成年であろうと、頭をかしげて疑っている様子である。
「近本様であんさるでしたら、私が住んでいる家まで来んさい。」と言われた。広島弁である。
可部線の踏切りを渡って15メートルもあろうか、大木で囲まれた大きな古い家に連れていかれる。その家の中には、焼け出された数世帯の家族で一杯であった。10畳ぐらいの広い座敷に迎えられた。
お互いに正座をし、おもむろに「〇代子さんは、私の部屋で亡くなられ、遺骨として帰って来られませんので、せめてもの形見として、遺髪と胸に付けられておられた名札を持参致しました。」と言って、封筒の中よりそれを取り出して、お父さんに渡した。
「〇代子、帰って来たか!」 ワッと涙々である。
〇代子さんの生前の様子、亡くなる前の最後の言葉、遺体は似の島に送ったこと、私も負傷していたので、充分な手当が出来なかったことなどをお詫びした。
「この名札は、〇代子が胸に付けていたのに間違いはありません。〇代子、よく近本様の胸に抱かれて帰って来てくれた。」「近本様、よくぞ〇代子を連れて来られました。」
「いいえ、私の当然のことをしただけです。」
〇田さんのご家族にお別れする時が来た。横川駅より長崎行きの汽車に乗った。
広島よ、色々な出来事があった。生死のことがあった。私の一生涯、決して忘れることは出来ない。
被爆でお亡くなりになられた方々、静かにお眠り下さい。
(ご愛読、ありがとうございました)
(この内容は、被爆者の方の御好意により頂きました。本人から二浪人の時に大変お世話になり、又、何度も、当時のことを聞かされました。今は、残念なことに、故人となられています。被爆関係者のとても貴重な生の内容です。)