日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

臭 覚・・・

2009-06-30 08:45:48 | Weblog
 渡り鳥が遠くから来て、又、戻って行く。それも、スゴイ距離を。どうしてかなあと永いこと疑問に思ってきた。
 ハトに関しての詳細な研究が先日教育テレビで放映されていた。
 アチコチから(まだ、ハトが行ったことのない所から)放ったハトが巣に戻るコースを詳細に見てみると、最後にたどり着くコースは、次第に同じコースを通る傾向になり、最終的には、ほぼ、決まったコースになっているとのこと。
 ハトの視力がいいのか、磁場により、そのナビゲーターが上手く働いているのか?今までは、ハトが地球の磁場を感じることが出来るからと言われていたが。
 事実、ハトには、上口ばしに磁鉄鉱が3つあり、3方向で磁場を感じて移動していても、不思議でない。しかし、それに異論を唱えた学者がいた。ハトには、臭覚の地図が既に出来ていて、それの方が大きな役割をしていると主張したのだ。
 実験が行われた。臭覚の機能を取ってしまったハトは、一匹も巣箱に戻れなかったが、ハトの磁鉄鉱を取ったハトは、ちゃんと全て戻れたのだ。
 臭覚の地図、それって、産まれた時からハトがずっと身に付けてきているモノらしい。
 イヌがスゴイ嗅覚を持っていて、家に戻れる?とのことであるが、ヒトも、元々はスゴイ能力があったと思われる。
 今でも、女性の嗅覚はスゴクて、遺伝的に遠く離れた(男性の)匂いを好む傾向にあるとのこと。これも、いい子どもを産む為に身に付けた本能とのこと。つまり、娘が一番嫌う匂いは、父親の匂いと言うことになる。
 ところが、お産が終えると、不思議なことに、あんなに嫌いだった父親の匂いをも好む様になるとのこと。これって、身内からお世話してもらう為かも?
 数ヶ月までの赤ちゃんは、産んでくれた母親の母乳の匂いをしっかりと覚えていて、それが付いたガーゼのみに手を出す。
 食中毒の時期、嗅覚をフルに働かせて、それを防ぐことが出来ると思いがちだが、必ずしも、菌が増殖していてもそれらしい匂いがないことも多いとのこと。特に、冷蔵庫の野菜には、注意が必要らしい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栄光の蔭には・・・

2009-06-29 08:53:09 | Weblog
 若干17歳の石川遼選手が優勝し、全英オープンの出場権も得て、マスコミが騒いでいる。50歳で亡くなったマイケルジャクソンの音楽を伴った踊りがテレビで流れ、今世紀最大のエンターテイナーだと讃えられている。イチローが、3割7分を越える打率で快進撃を続けて、マスコミが騒いでいる。
 三者に共通しているのは、ケタはずれの練習量だと思う。それに同行した人が一番よく知っていると思われるが、彼等は、世間が見てない所で努力をしている正真正銘のスゴイ努力家なのだ。
 太鼓の練習でよく言われるのは、「練習は本番、本番は練習。上手な人とそうでない人との差は、1つしかない。それは、上手な人は、人が見てない所で一生懸命に努力している。」と。
 プロであっても、しばしば練習してなければ、次第に出来なくなってしまうだろう。常識的に、練習好きでないと、大成しない。横綱白鵬が先日テレビで言われていたが、彼は、練習が大好きとのこと。大分県出身の千代大海も、白鵬の様に練習好きだったら、とっくの昔に横綱になっていただろう。(そんな練習嫌いな千代大海であっても、私は彼が大好きだが。)
 元々それなりの素質を持っていて、それが開花して大成すること、確かにあるだろう。しかし、才能があっても、それを発揮することなく、一生終わっている人の方が多いと思われる。
 大成した人は、親が熱心だった、本人もやる気があった、周りにその子の才能を引き出すことの出来る人がいた、それなりのチャンスがあったなど、いろんな条件があったはず。大きな挫折や苦労がやる気を起こした例も多いと思われる。
 克って奢らず、負けてくじけず、自分に厳しく、自分をしっかりと律する性格、大切だなあ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

還暦での挑戦(おわりに)

2009-06-28 10:39:22 | Weblog
 「還暦の挑戦」シリーズの最終回。
 来年も、オーストラリアのグラッドストーン市に行きます。5月の連休明けから8月の初めまでの約3カ月間。今回よりも、もっといい演出内容が出来る様に、この1年間、みっちりと準備をしようと思います。
 海外で日本文化を紹介することが、自分が永いこと描いてきた夢でした。それが実現しつつあることを大変嬉しく思っています。
 これも、多くの人の支援の賜です。家族の理解、職場の理解、佐伯市の理解、グラッドストーン市の理解、それがなかったら実現できなかったし、今からも、それに支えられて為し得ることだと思っています。
 今回、10年振りであったので、又、期間が前よりも長かったので、初めに戸惑いましたが、グラッドストーンの人達の温かい支援のお陰で、上手く出来たと思っています。
 こんな感じで、来年だけでなく、再来年も、その次の年もと、出来るだけ永く続けられることを祈っています。
 どうもありがとうございました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

還暦での挑戦(その29、無事に日本に生還)

2009-06-28 09:21:15 | Weblog
6月11日(木)
 昨日、早く寝て、今日は4時過ぎから起きていた。予約通りに6:00にタクシーがホテルの玄関に来た。運転手さんは女性ドライバーで、よく話す人でとても感じが良かった。
 8:45ちょうどに飛行機は動き出し、その日の日本時間の17:05に成田に着いた。
 機内はガラガラって感じ。新型の影響もあるのかなあ?隣の中央の4人席に誰も座っていなかったので、そちらに移って、将棋と囲碁に明け暮れた。もう、必死になっていて、食事以外、時間の経つのも忘れた感じで、没頭していた。長い時間が、3時間ぐらいで着いた感じになっていた。
 日本にだんだん近づくに従って、皮膚に違和感を覚えた。日本での湿度の高さを機内で感じたのだ。雨季でもサラッとしたオーストラリアでの皮膚の感触は、もう、来年までないのだ。
 着くと直ぐに病院の事務長さんに「新型インフルエンザのことで、直ぐに仕事に就かない方がいいのでは?」と電話する(前もってハガキでも打診していた)と、「院長と相談して、明日、又、電話します。」との返事。(翌日、1週間ズラして、15日を22日からお願いしますと留守電に入っていた。)
 成田空港で荷物2つを日本航空が扱っている運搬会社に頼んで送った。時間があったので、そこで夕食も摂り、又、東京のお土産も買って、19:55の福岡行きに乗った。福岡に着くまでは、iPodで音楽を聴いていた。福岡には21:55に着いた。
 それから地下鉄で博多駅まで行ったのはいいのだが、ホテルがどこか分からなくなって(反対の方向に出ていた)、人に尋ねて、やっとホテルにたどり着くことが出来た。
 今日の朝オーストラリアにいたのに、同じ日に博多にいて、明日は佐伯にいることになる。こんな時代に自分は生きているんだなあ。

6月12日(金)
 11:30までホテルにいて、12:00の「ソニック」に乗って大分で降り、直ぐにHISに行って、7月予定をキャンセルした(キャンセル料が二人で64000円)。(今年3回、後、7月と9月にも行こうと予定していたのだが、日本で1週間、オーストラリアで1週間缶詰状態に耐えられないので、キャンセルの道を選んだ。)
 15:10の「にちりん」で帰り、自宅に着く前に(家内を先に帰らせて)自分だけ(佐伯市の)教育委員会に寄って経過を報告し、そこからテクテクと歩いて帰った。
 日本は湿っぽくて暑かった・・・。
(写真は、扱いが難しかったトイレットペーパー?!)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

還暦での挑戦(その28、ブリスベン)

2009-06-27 16:15:52 | Weblog
6月10日(水)
 朝、○ロ○さんが、わざわざバックパッカーズまで見送りに来てくれた。嬉しかったが、お腹が大きいのに、迷惑掛けて、気も使わせて、申し訳ない気持ちで一杯だった。今度来る時には、元気な赤ちゃんを抱いていることを祈って別れた。
 帰る直前に、冷蔵庫に残った食べ物や石鹸や洗剤を、(バックパッカーズにしばらくいる予定の、日本語が少し出来る)韓国の2人に上げた。
 8時30分ちょうどに、リンダさんの車で空港に行った。リンダさんと別れる時、リンダさんと息子さんに、日本から持ってきたキーホールダーを上げた。空港に着いても、まだ、その飛行機に乗る人は誰も来てなかった。
 トランクの重さ、来る時の29Kgが23Kgになっていた。飛行機はほぼ満席で、10:20に出発して11:25に、(オーストラリアでは、3番目に人口の多い170万の人口を有する)ブリスベンに着いた。そこからタクシーでホテルまで行った。ブリスベンは、やはり大都会だった。ホテルは、市の繁華街からちょっとだけはずれた所で、とてもいい所だった。
 そのホテルの名前を改めて見て、驚いた。「メトロホテルタワーミル」、・・・グラッドストーン市のちょうど中心地にあったメトロホテル(10年前に宿泊している)と同じ系列のホテルだったのだ(それまで、全く気が付かなかった)。インターネットで予約したのだが、10.913円にしては、当たりだった(又、次回も宿泊してもいいかな)。
 閉めた後、部屋の鍵が開かない。何度しても。で、フロントに行って、鍵をかえてもらった。しかし、それでも開かない。で、フロントの人がマスターキーで開けると、開いた。分かった、閉める時、内側のロックをして閉めたから、そうなったのだ。そのまま閉めれば良かったのだが(又、ホテルでの基本的なことを勉強したなあ)。
 その(丘の上にある)ホテルをちょっと下がると、レストランが目白押しって感じにあって、そこでの食事、又、格別の味で美味しかった。
 繁華街までそう遠くない距離で、歩いて行った。マスクをしている人なんて、いない。若者が多く、いろんな人種の人が沢山いた。人通りの多い所で、ボンゴを高らかに打っている日本人がいた。
 帰る時に、明日の朝の食事分も買って帰った。明日は、8:45にブリスベン空港を出発だ。ホテルにある電話から、直接タクシー会社に電話して、6:00ちょうどに予約した。
(自分の写った写真は、6月10日にバックパッカーズで撮ったもの)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

還暦での挑戦(その27、来年又必ず来ます!)

2009-06-27 14:05:38 | Weblog
6月8日(月)
 今日は、祝日(クウィーン女王の誕生日)で、休みだった。今まで行っていなかった「セントラルパーク」に行った。とてもいい所だった。そこで軍人さんの銅像を見て、オーストラリアでは、軍人さんの評価が高いんだなあと思った。
 夕方、ドナさん宅に持って行くワインとビールを買いに行った。
 19時過ぎにドナさんが来て、自宅におじゃまして、家族の人と一緒に夕食を摂った。とても人なつっこいネコ1匹、イヌ2匹もいる。とても可愛い。動物を大切にしている国は、ヒトの心にも、ゆとりがあるのではと思う。東南アジアの○○の街中で見たイヌ、ボロボロで、あの姿、今でも忘れることが出来ない。ドナさんには、大変お世話になった。アチコチ連れて行ってもらって、グラッドストーンの地理的なことがよく分かる様になった。
 ドナさん、茶道にとても関心を持っていて、帛紗(ふくさ)の捌き方を教えてもらいたいとのことで、少し教えた。次回、帛紗を持ってきて、ちゃんとしようと思った。旦那さんも、子どもさんも、とてもフレンドリーだった。会話もはずんで、食事もとても美味しかった(オーストラリアでは、大きな皿に沢山盛る感じで、日本の様に、入れ物を沢山使うことは、あまりしない感じ?だ)。
 聖ジョン校からのお礼のモノももらった。こちらからは、持って行った柄杓と、「荒城の月・さくら・宵待草・赤とんぼ」のピアノ曲に合わせて自分の篠笛演奏が入ったテープを上げた。楽しい夜だった。

6月9日(火)
 8:00過ぎにチャットインカフェで朝食を摂り(沢山買っていた冷蔵庫の中の食べ物を食べながらドンドン整理して行った)、図書館に行ってインターネットをし(無料、しばしばししていた)、いつも行くショッピングセンターに行った。何と不思議なことに、そこで初めにとてもお世話になったジョンさんとトニーさんにバッタリと遭った。
 ジョンさんもトニーさんも、そこで買い物をしていた。この広いグラッドストーンでこの時間帯に帰る前に遭うとは、あまりにも良くできたストーリーだなあ。
 礼をしっかりと言って、グラッドストーンでとても楽しかったことを伝えた。「又、来ます、インフルエンザの関係で、この7月には来れないかも知れないが・・・」と言うと、残念そうな顔をされていたが、「来年は、確実に来ます!それも、3カ月近く滞在します!」と言うと、「それはいいことだ!」と言われて、ニコニコされていた。
 午後最後の洗濯をし、夕食は、タイ料理店で食べた。顔見知りになった従業員さんに、もう、今年はこれで終わりとはどうしても言えなかった。
 ウェンディーさんから電話があり、明日の見送りには、家庭の都合で行けなくてすみませんとの電話があった。ウェンディーさんにとても気を使わせて悪かったなあと思った。
 又、午後に自分がいない時、ベナラビーの校長先生と○ロ○さんが来ていて、ベナラビーの生徒の服2着が託けられていた。
 多くのグラッドストーンの人に、言葉に表せない程、大変お世話になった。私も充分に楽しむことが出来た。明日は、ブリスベンに行き、そして、明後日は、そこを立って日本に戻ることになっている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

還暦での挑戦(その26、ゆっくりとグラッドストーンを堪能) 

2009-06-27 11:08:46 | Weblog
6月6日(土)
 ゆっくりした1日だった。体の調子はいたっていい。日本に帰れば、雨が降って、うっとうしい梅雨の時期だなあ。ここでは、雨季と言っても、カラッとしていて過ごしやすい。今は、秋なのだ。
 9時過ぎにチャットインカフェに行って、カプチーノを飲んだ。このレストランが明日の朝もしていることを知った。
 洗濯もし、テイクアウェイのタイ料理を夕食としてバックパッカーハウスで摂った。
 折り紙もした。折り紙の折り方、カエルをやっと思い出したが、ダブルハートが思い出せない。途中まで出来るのだが、その先が何度挑戦しても出来ない。ロザリオ何かは、思い出す気にもならない。次回来る時には、しっかりと覚えておこう。
 
6月7日(日)
 朝、チャットインカフェに行った。日本と違って、決まった定食なんてない。自分で選んでいくしかない。どのレストランに行っても、昼食や夕食で、お薦め定食コース何て、まずない。日替わりコース何て、もっとない。
 私は、ちょっと食べていたので、カプチーノしか摂らなかったが、家内が朝食を頼んで、そのボリュームにビックリした。野菜に、ベーコン、玉子2つ、ウインナー2本、朝からタンパク質のオンパレード。それにバターの付いたパンが付いているが、そのパンの切り方も分厚い。これじゃ、太るの当たり前だ・・・!
 マリーナに行った。10年前にここでのフェスティバルで演奏した会場にも行った。いい所だなあ。
 夜は、タイ料理店でゆっくりと食べた。家内は、ここですっかりタイ料理通になってしまった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分の監督は自分である・・・?!

2009-06-26 17:18:45 | Weblog
 60歳になると、見えないモノが見えてきている様な気がする。
 今までいろんなことに挑戦して、上手く行ったこともあるが、失敗も確かにしてきている。自分の能力、体力、他人との関わり、自分の性格、それなどを誰よりも自分自身が一番よく知っていると思う。
 この歳になると、今まで失敗と思っていたことが何か懐かしくなってくる。そして、そんな失敗が今の自分を育ててくれたんだなあとも思える様になっている。
 もう、無理は出来ないし、無理をしようとも思わない。世の中の渡り方も、今までより上手になっていると思う。
 何かを決断しないといけない時、多くの人の知恵を借りて、いろんな意見をまず聴くことは、大切なことだと思う。しかし、最後の決断は、自分でし、上手く行かなくても、決して他人のせいにしないことだ。自分は、多くの分岐点で、そんな生き方をしてきたと思っている。
 2浪して二期校の大学を受験をする時も、結婚相手を選ぶ時も、医局を選ぶ時も、大学の医局を出る時も、病院を辞めて(19床の入院設備を持って)開業する時も、それを閉院する時も。そして、その後、新たに病院に就職する時も、1年間フーテンの寅さんの生活を海外でして全く仕事をしない道を選んだ時も。更には、又、病院に就職する時も、そして、今年の3月31日に退職した時も。そしてそして、今、(海外で日本文化を紹介する為に)アルバイト医の道を選んだ時も。
 もちろん、家内とも相談するし、いろんな人と相談はしてきている。しかし、最後は、自分と慎重に相談して決めてきている。
 何やかんや言っても、自分のことは自分が一番よく知っていると思っているから。
 監督の自分、昔よりは、少しましな監督なっていると思っているが。監督との信頼関係も、最近、強固なモノになっているかな?!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

還暦での挑戦(その25、大成功)

2009-06-26 08:07:48 | Weblog
6月5日(金)
 朝、ベナラビー校とサウス校へ贈呈する色紙に字を書いた。ベナラビー校には、昔の夢という字を、サウス校には、誠と言う字を書いた。心を込めて。不思議なことに、自分でも今までで一番よく書けたって感じになった(書いた後、悔いが残ることが多いのだが)。
 いつもの様に、○ロ○さんが8:45に来てくれた。○ロ○さんには、ホント、大変お世話になった。一番お世話になった人だ。
 今日のベナラビー校では、今まで全く接してない低学年のクラスだった。
 2回クラスが入れ違ったが、上手くできて、子ども達も満足そうだった。太鼓が2つあると、全然違う。子どもに太鼓を打たせるにしても、その時間が半分に短縮できるからだ。
 午後のサウス校は、学校の行事の関係で、キャンセルになっていたので、最後にちゃんと教えられなくて残念無念。サウス校で教えたクラスの子ども達が、その内に、自分の曲をフェスティバルで演奏してくれるといいなあと思っている・・・(恐らく、ちょっと頑張れば自分たちで出来るはず。曲名を付ける様に、○ロ○さんに、伝言した)。
 午後、時間があったので、○ロ○さんと一緒に食事を摂り、○ロ○さんが薦めるおみやげ店に行って、(なるべく重くならずにかさばらない)オーストラリアの色がよく出ている感じのお土産を沢山買った。
 夜は、家内と一緒に、スコッティーズで、音楽を聴きながら(毎金曜の夜は、いつも、生演奏がある)、ワインを飲みながら、ゆっくりと夕食を摂った。音楽を聴きながら、異国の地で前で座っている家内は、いつもと違った感じに見えた。何故かなあ。こんな感じで1カ月、ずっと一緒にいること、今までなかったなあ。
 グラッドストーンの8つの学校で、クラスを代えながらデモした回数(30分間、40分間、60分間が多かったが)、何と(延べ数を含めて)67回もしていた。それに、市庁舎と友好協会の歓迎会とバックパッカーズでちょっとだけ篠笛を吹いた数を入れると、70回となる。
 大成功だったなあ。
*この日は、クイーンズランド州の誕生日で、ニュー・サウス・ウェールズ州から独立してちょうど150年目に当たるとのこと。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

還暦での挑戦(その24、人生最良の日?!)

2009-06-25 10:00:38 | Weblog
6月5日(木)
 朝、7:30ちょうどに音楽の先生である○ンさんが来た。今まで行っていなかった聖フランシス校に行った。そこでは、殆どの生徒に打たせた。大成功って感じだった。又、学校自体が素晴らしい環境だった。行った時に、カンガルーが周りにいてこちらを見ていたのには、ビックリした。
 オーストラリアの学校、日本の様に、3階の建物の学校、見かけなかった。この学校では、2階もない。
 全部で7回、15時過ぎまでフルに演奏した。
 最後の方で、盆踊り太鼓を打っていたら、子どもが踊っている。これだ!私が一番期待していた光景だった。又、日本語の先生、篠笛を吹いている時に、感激して涙ぐんでいて、こちらも泣きそうになっていた。
 帰る時に、校長先生に、「一期一会」と昨日書いた色紙を(自分なりに意味を説明して)差し上げた。
 ○ンさんとバックパッカーズハウスで別れる時、(盆踊り太鼓とピアノと一緒に篠笛の演奏が入った)テープを上げた。又、(プラスチックの)篠笛も、喜んで受け取ってくれた。
 夕方の家内との(チャッティンカフェと言う)レストランでの食事、何故か、心がウキウキとして、とてもとても美味しかった。
 人生最良の日って感じだった。(自分と関わってくれたグラッドストーンの人に感謝感謝感謝、そして大感激)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする